日米で違いすぎる「反緊縮財政」を巡る議論

大御所が見る米国経済「利上げ後」のゆくえ

共通した理論に基づくため、異なる意見を言うからといって理解不能ということはない。演繹法的に考えれば、相手が何を理由にして異なる意見に至ったかを理解できるところに、紳士的な態度で対立意見と議論できる。

この観点から見れば、スティグリッツ教授の反緊縮財政論は、(ミクロ経済学的基礎付けがない)オールドケインジアン式の需要不足および反緊縮論とは根本的に異なるといえる。その理由は、スティグリッツ教授と『21世紀の不平等』東洋経済新報社刊の著者でもあるアンソニー・B・アトキンソン教授が共著した大学院レベルの教科書“Lectures on Public Economics”で、筆者がかつて学んだことから想起した。

スティグリッツ教授の反緊縮財政論は、目の前にある市場の失敗(公共財の過少供給、情報の非対称性、不完備市場など)を是正するためには財政支出を惜しむな、という含意がある。市場の失敗の是正は、ミクロ経済学的な基礎付けがあり、財政健全化を重視するフェルドシュタイン教授も同意できた点だった。異なるのは、その財源(国債増発か他の歳出削減か)と規模である。

政策論議は権力闘争であってはならない

さらに言えば、スティグリッツ教授の主張は、オールドケインジアン式に需要側しか見ず供給側は別問題と考える発想とは似て非なるものである。需要不足を解消するためには、有効需要を増やせばそれでよく、成長を促す供給側への働きかけは筋違い、という見方は、スティグリッツ教授が挙げた財政支出の対象とは相容れない。

社会インフラ、教育、地球温暖化防止と、財政支出を出した段階では需要を増やすが、支出の蓄積が生産性の向上など供給面に中長期的なよい効果をもたらすことが期待できるものである。経済低迷に対して供給側に働きかける策の必要性は、テイラー教授とも通ずる点と言える。

学界での政策論議は、権力闘争ではない。意見の相違は、真理の探究の過程において学問の自由に根差したものであり、異論を唱える学者に対しても敬意を持って接するのが節度である。見解の相違を権力争奪や法廷闘争のように扱って、勝敗を完全に決着つけるがごとく相手をこき下ろし続けるとか、相手の主張を悪意を持って曲解して批判するとか、論理性よりも価値観が優先して相手に罵詈雑言を浴びせるといったことはありえない(ましてや人格否定などあり得ない)。短期間では真偽を判明できない仮説に、短兵急に自説が正しいと我田引水的に評価を下して、相手に発言の責任をとれと迫ることなど、すべき行為ではない。

学界の外であっても、自分の意見に合わない学説を反射的に排し、意見の合う学説だけ聴き入れるという態度ではなく、両者の意見の違いの根拠を深く理解すべく意見が合わない学説も耳を傾け、早合点な結論を出さず、各意見の長所を論理整合的に根気強く取捨選択する姿勢が望まれる。

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