大隈重信没後百年「早稲田の源流」は長崎にあった 教育者の原点と知られざる医学発展への貢献
早稲田の源流は長崎にあり
大隈重信(1838~1922年)は明治・大正期の政治家である。日本初の政党内閣(隈板内閣)を組織した政治家で、早稲田大学を創設した教育者でもあった。
大隈の中央での登場は、明治元年(1868年)4月、英国公使・パークスを万国公法の知識で論破し、日本の国権を守った一件である。当時、国際法の知識を持ち合わせていた者は日本国内で数えるほどだった。同年12月には外国官副知事に抜擢され、明治2年に東上して、築地に居を構えてから明治新政府に出仕。新日本建設に活躍し、存在感を示した。地租改正、富岡製糸場の設立、鉄道・電信の敷設、新通貨「円」の制定などの献策、実施にあたった。
大隈のこうした参議や大蔵卿としての活動はおおむね知られているが、それ以前の幼年期から青年期を過ごした佐賀・長崎時代の生い立ちや活動の話は案外知られていない。
大隈重信は幼名を八太郎といった。拙著『大隈重信 青春譜 -早稲田の源流ここにあり』は、八太郎時代を描いた初めての小説である。その活動や生活は痛快で、これほど破天荒な青春時代を送った若者も珍しいと思えるほどの青年だった。
八太郎の父、信保は佐賀の鍋島藩に石火矢頭人(いしびやとうにん、砲術長)の任で仕えていた。その父は八太郎が13歳のときに死去し、その後は、母、三井子(みいこ)が2男2女を女手ひとつで育てあげた。
父、信保の口癖は、「いいか、八太郎、勇気のなかもんは病気たい」だった。なにより、卑怯や臆病を嫌った。この教えは大隈の人生に大きく影響した。
佐賀の藩校に入学した八太郎は旧弊を打破したいと改革を唱えて大暴れし、退学処分を受けている。が、一向に落胆せず、蘭学を学び、さらに、英学へと軸足を移してゆく。あくまで陽気で、不屈の精神で生き抜き、その青春譜は、〝痛快青春劇場〟と呼べるだろう。
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