米国人の私が銃規制強化に「反対」する理由 保守系コラムニスト、ドーサット氏が吠える
どちらも「常識的な」新規制だと喧伝されたが、殺人を減らす効果がはっきりと認められるほどあったかと言えばそうでもなかった。
銃規制支持派なら、それは法律に残された欠陥のせいだと言うかも知れない。特に個人が自分の暮らす州内で銃を売る場合、買い手の犯罪歴の調査が免除されたのは大きな問題だったというわけだ。
自殺は減っても殺人は減らない
だがその「欠陥」は、問題の核心を突いている。アメリカで個人が所有する銃は3億丁に上るが、個人間の銃取引を個人の権利を損なわない形で「常識的に」規制するのは非常に難しい。結局は身元調査にとどまらず、流通する銃の数を大きく減らすことも必要だという話になる。
銃規制支持派の名誉のために付け加えるなら、彼らの多くもこの点を認識している。オーストラリアでの銃規制強化が引き合いに出されることが多いのはそのせいだ。同国では1996年に起きた乱射事件を受け、広範かつ強制的な銃の買い取り・回収を行った。
オーストラリアの銃規制強化が自殺を減少させたのは、はっきりした証拠があり間違いない。だが、殺人に対する効果はそれほど明確ではない(一般論で言っても、銃の保有率と殺人発生率の相関を示す強固な証拠はない)。もっとも自殺率の低下は−−銃乱射事件を巡る議論とは直接関係がなかったとしても−−国民の健康を守るという意味では大きな成果と言えるかも知れない。
では「オーストラリアにならえ」はリベラル派の長期目標たりうるのだろうか。たとえそうだとしても、リベラル派はその代償を考えるべきだ。アメリカの文化が根底からひっくり返らない限り、大規模な銃の回収などという施策は強い抵抗に遭うだろう。たとえ立法や司法の場で規制推進派が勝利したとしてもだ。
かつての禁酒法のようなものだ。国民の健康を守るという意味では大きな成果を上げたが、警察の取り締まりの負担や力や闇取引きの横行、自由の抑圧といった大きな犠牲を伴った。