教養とは、こうした交流を通じて、知識や情報をぶつけ合うことで、はじめて生きた教養として育まれるものと考えます。単に情報や知識を集めたから、教養が身につくというものでもないのです。
知識や情報を集めるだけでは、いわゆるオタクにすぎません。人間関係の中でそれらをブラッシュアップしてこそ本物の教養であり、教養人だということです。そしてそれらを育む時間こそが自分時間であり、創造的な時間なのです。
教養とは真逆の発想
若い世代を中心に、コスパやタイパという言葉がよく使われています。この商品はコスパ最高だとか、それはタイパが悪いからやめておこうとか……。いずれも効率を優先し、ムダをできるだけ減らすという考え方です。
このような考え方は、経済合理性という視点から見ると正しいように感じます。しかし、私からすると短期的には得をしたとしても、中長期的には損をする場合が少なくないと考えます。
なぜならすぐに役に立つものは、得てしてすぐに役に立たなくなるからです。
タイパやコスパの視点からしたら、それこそ教養を身につけることなど、まどろっこしくムダなことに思えるでしょう。読書にしても1冊をしっかり読むなんて時間のムダ。ダイジェストで要点だけ知っておけばいい。まして古典なんて無駄の最たるものだと考えます。
たしかに、お金を稼いだり、仕事の成績を上げようというときに、古典を読むことがすぐに役立つとは考えられません。しかし長い目で見たときに、教養が身についている人とそうでない人では、大きな差が出てくると考えます。
例えば、古代ギリシアの三大悲劇詩人の1人であるソフォクレスが書いた戯曲「オイディプス王」の話は、海外ではある程度のレベルの人たちは当たり前の教養として読んで知っています。それも知らずに「何、それ?」などと言おうものなら、教養のない人間として認識され、以後まともに相手にしてくれなくなるでしょう。
反対に、教養の乏しい人の話の内容はどのようなものでしょうか。ひと言で言うならば、「お金の話」です。
おおよそ何が儲かるか、何が得になるかという話に終始します。せっかく人と人が向かい合ったときに、お金の話しかできていないとしたら、なんとも寂しく貧しい状態だと思いますが、いかがでしょうか。
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