ポピュリズム運動で先を行く欧州では、急進的なポピュリズムが穏健化する「ポスト・ポピュリズム」という状況が出現してきている。政治学者のティボー・ミュゼルグはその代表格にイタリア初の女性首相であるジョルジャ・メローニを挙げているが、これは部分的には日本にも当てはまる傾向かもしれない。
ミュゼルグは、「右派であれ左派であれ、ポスト・ポピュリズムは、2010年代のポピュリズムの爆発以前の古い政治への回帰を意味するものではない。むしろ、その本質は、10年前なら破壊的とみなされていたであろう政策(例えば、移民、価値観、国際貿易など)の融合にある」と述べた。高市内閣も外国人政策の厳格化へ舵を切ったとはいえ、労働力としての外国人の受け入れ自体を否定している訳ではない。
一方で、欧州におけるポスト・ポピュリストは、ロシアや中国寄り(日本の場合は反米しぐさか)のポピュリストたちとは異なり、「西側諸国の擁護者としての役割を明確に担っている」という(以上、Post-populism is out to win big in Europe – when will it cross the ocean to the Americas?: Thibault Muzergues for Inside Policy/2024年2月27日/Macdonald-Laurier Institute)。これもおおむね共通している。
日本の現状を反映する「超ポピュリズム」内閣
当初から、高市氏は「極右」とレッテルを貼られ、排外主義や右傾化が加速するという悲観的なシナリオが語られていたが、先の「テクノ・ポピュリズム」や「ポスト・ポピュリズム」の潮流と似通った現実主義を歩み始めているように思える。おそらく日本のポピュリズムシーンにおける新たな一幕なのだろう。
筆者は、高市内閣に関しては、「ポピュリズムによるポピュリズムの超克を試みる」という意味で「超ポピュリズム」という表現がふさわしいと考えている。個々のポピュリズム政党の限界を意識しながら、その国民目線の政策の懐柔と連携のアピールによって、技術的で実践的な解決へと導く姿勢を示すとともに、効果的な情報発信によるイメージ戦略を駆使して人々の近視眼的な欲求を満たすのである。「連立的なポピュリズム」であると同時に「実用本位的なポピュリズム」なのだ。
この点において高市氏が世襲議員ではなく、いわゆる苦労人で、政治生活を無所属や新党でスタートさせていることは、ポピュリズムの2つの定義をまたぐ強みといえる。ポピュリズムは、人々に巣食う経済的疲弊と自尊心の低下を養分にしている。自分たちの声を聞こうともしない既存政治に嫌気が差し、国民のために働く“本物っぽい人”が現れることを熱望している。高市内閣の世論における無双ぶりは、日本の現状を恐ろしいくらい適切に反映しているにすぎないのだ。
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