なぜ好きな人が多い…? 日本人が「ゴッホの絵」とその物語に熱狂する理由 日本で初めて紹介されたのは文学同人誌だった――

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ゴッホがほかの画家と決定的に違う点は、ここにある。私たちはゴッホの絵を見るとき、彼の劇的な人生を胸の奥のどこかに抱えている。うねるようなタッチで塗られた鮮やかな色彩は、波乱に満ちた生涯と響き合う。

つまり、私たちは絵そのものと同時に“生の物語”を観る――この重なり合う体験が、ゴッホをゴッホたらしめている。ゴッホの作品は人生の物語と分かちがたい関係性をもつことで特別な共鳴を生み、相互に名声を押し上げてきたのだ。

手紙から現れたゴッホ―ヨーの使命

今日ヨーは「ゴッホを有名にした女性」として知られる。彼女の尽力なしに、私たちはゴッホの数々の作品はもちろん、彼がやり取りした膨大な手紙を目にすることもなかった。

現在、手紙は900通余りが知られており、芸術・信仰・制作・健康・金銭といった、ゴッホの芸術と日々の生活にまつわる出来事や考えが細かく綴られている。もしヨーが手紙を大切に保管していなかったら、ゴッホという作家の在り方はまた違ったものになっていただろう。

ヨーの伝記によれば、手紙を本にするという構想は、生前のテオが語っていたものだった。ゴッホの死から半年後、テオもこの世を去る。そのときのヨーの気持ちは想像に余りある。二人の結婚生活は2年にも満たないもので、子どもは乳飲み子だ。夫亡きあとのアパートは、膨大な数のゴッホの油彩と素描、書簡、その他の遺品であふれ返っていた。

ヨーは美術に対する知識も経験もなかったが、夫を深く愛していた。彼女は、夫が掲げていた人生の目標、すなわちゴッホの作品の評価を確立し、書簡を編集し出版することを、妻である自分の使命として受け入れたのだ。

ゴッホは、農民画で知られるミレーの《種まく人》を早くから模写していた。この主題を自ら描くことは、彼にとって長年の大きな願いでもあった
フィンセント・ファン・ゴッホ 《種まく人》 1888年11月、油彩・カンヴァス、32.5×40.3cm、ファン・ゴッホ美術館(アムステルダム)(フィンセント・ファン・ゴッホ財団) 出品:「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」東京都美術館

当初ヨーは、テオが亡くなった悲しみを癒やすために手紙を読んだという。ひたすらテオに関わることが書かれていないかと、大量の手紙を読んだ。

ところが、何度も読み返すうちに、彼女の前にゴッホの全体像が鮮やかに現れたと、知人に宛てた手紙に書いている。手紙を通じて、ヨーはゴッホの孤独な人生の持つ偉大な高みを確信するに至った。以降、周囲の無理解にも揺らぐことなく、ヨーは自らの使命を全うした。

ヨーは、ゴッホに初めて会ったときの印象を、この自画像によく似て、健康的で毅然とした様子と回想している。一方ゴッホは、死に神の顔かもしれないと、全く別の感想を残した
《画家としての自画像》1887年12月~1888年2月、油彩・カンヴァス、65.1×50.0cm、ファン・ゴッホ美術館(アムステルダム)(フィンセント・ファン・ゴッホ財団) 出品:「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」東京都美術館

東京都美術館「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」は、ゴッホが追い求めた芸術とファン・ゴッホ美術館の設立の歴史をたどるとともに、ヨーの物語の旅でもある。ゴッホの手紙の力を最も強く実感していたのは、ほかならぬヨー自身だったのだろう。

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