大河「べらぼう」天皇の側近をクビに 松平定信が失脚する一端になった「尊号事件」の"やりすぎ"な裏側とは
紛糾した尊号事件
江戸時代後期、松平定信が徳川幕府の主席老中を務めている時に「尊号事件」(尊号一件とも呼ばれる)が起こります。時の光格天皇が、父である閑院宮典仁親王に「太上天皇」(譲位した後の天皇の称号。上皇)の尊号を贈ろうと希望したことが事件の発端となりました。
光格天皇は、明和8年(1771)、典仁親王の第6皇子として生を受けます。母は岩室磐代。安永8年(1779)、後桃園天皇が若くして崩御したことにより、後桃園天皇の養子、皇嗣に定められ、翌年、即位することになるのです。光格天皇、10歳の頃のことです。
光格天皇の実父・典仁親王は、天皇の父となったわけですが、席順は「三公」(太政大臣、左大臣、右大臣)の下に位置付けられていました。
江戸時代初期、徳川家康が金地院崇伝に命じて起草させた「禁中並公家諸法度」(1615年制定)には「三公の下親王」と記載されていたからです。
光格天皇は、こうした現状を嘆き、改善するために、父に「太上天皇」の尊号を贈ることを希望したのでした。
「禁中並公家諸法度」の改正要求は、当時の幕府との力関係を考えれば、現実的ではありませんし、不可能です。よって、尊号を贈ろうという手段を考案したのです。



















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