大河「べらぼう」天皇の側近をクビに 松平定信が失脚する一端になった「尊号事件」の"やりすぎ"な裏側とは

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寛政元年(1789)8月、尊号宣下についての光格天皇のご意向が、京都所司代に文書で通達され、それは江戸の松平定信にも報されることになります。尊号事件の幕が開いたのです。

光格天皇は、父・典仁親王(1733〜94)が老年となったので、是非、尊号を宣下したいと幕府に通達。後堀河天皇の父・守貞親王に後高倉院(鎌倉時代初期の承久3年=1221年)、後花園天皇の父・伏見宮道欽親王に後崇光院(室町時代の文安4年=1447年)など、天皇の位には就かなかったが、天皇の実父に尊号を宣下したこれまでの事例を挙げて、尊号宣下したいと幕府に迫ったのでした。

しかし、老中首座の松平定信は、尊号を宣下することに反対します。「皇位に就いたことのない者に太上天皇の尊号を贈る道理はない」と言うのです。

「先例があるではないか」という朝廷側の主張に関しては、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権・北条義時追討を掲げて挙兵し、官軍が幕軍に敗北した承久の乱直後の混乱時、非常時の決定であり「先例とはならない」と言上したのです。

定信も妥協の姿勢を見せたが…

京都大火(天明8年=1788)で焼亡した京都御所再建の折りに、定信と協議したのは、関白・鷹司輔平でしたが、尊号事件の時も、定信と書状でやり取りしています。

尊号宣下は、光格天皇の実父に対する「孝心」によるので、何とか考え直してほしいと言う鷹司輔平。平安時代中期の寛仁元年(1017)、敦明親王(三条天皇の第1皇子)が「小一条院」の院号を贈られ、太上天皇に準じられた事例についても意見が交わされ、定信も妥協の姿勢を見せたようです。

尊号問題はここで一時中断するのですが、寛政3年(1791)、再燃します。定信と良い関係を築いていた鷹司輔平が関白を辞職、代わって、一条輝良が関白となり、大多数の公家の賛意により、尊号宣下実現を幕府に迫ってきたことが要因となりました。

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