大河「べらぼう」天皇の側近をクビに 松平定信が失脚する一端になった「尊号事件」の"やりすぎ"な裏側とは
しかし、定信は「論定まり候」(尊号宣下を認めないことは既に決定している)との考えでした。よって後は、どのように朝廷に断るかが重要との認識を示していました。
定信としては、朝廷に再考を促し、2年間ほど問題を引き延ばせば、朝廷も嫌になって、尊号宣下は後回しにして、閑院宮典仁親王の家領増加の話題になるであろうから、それを待てばいいとの考えだったのです(朝廷は、院領は4・5千石との意向でした)。家領増加の話になった際に、それを実行して、そのうえで「尊号宣下は無用」との返答をすればいいとの考えでした。
それでも、もし、朝廷が尊号宣下を強行した場合は、関白などを処罰し、閑院宮典仁親王には尊号を辞退させるという強硬意見をも定信は同時に考案していたのです。
「江戸に召喚し取り調べ」強硬な姿勢貫く
定信の予想通り、朝廷は「尊号宣下を行う」と通告してきます。それに対し幕府は「皇位は軽いものでないので、尊号宣下は決して御無用」と回答。
朝廷の職名で、武家との連絡を担当した、責任者の武家伝奏、議奏などの公家を江戸に召喚することを朝廷に通告します。議奏の中山愛親と、武家伝奏の正親町公明は江戸に召喚され、取り調べを受けるのです。
その結果、中山は罷免、閉門(昼夜の出入り禁止)。正親町は罷免、逼塞(日中の出入り禁止)という処分となります。幕府の強硬姿勢の前に、実父に尊号を贈りたいという光格天皇の想いはしりぞけられるのです。
松平定信は「天皇は、天地の神々に護られて万民を子とするご存在。よって皇位がひとたび動けば、国家・人民の廃興・安危にかかわる」との考えを有していました。そうした定信の天皇観が、尊号宣下拒否につながった面もあるでしょう。さらには、強硬姿勢を強める朝廷の要求を受け入れてしまったら、徳川幕府にとってもよくないという思考もあったと思われます。
(主要参考文献一覧)
・藤田覚『松平定信』(中公新書、1993年)
・高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館、2012年)
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