タイパ重視の時代に必要な変化とは…ターザン山本が提唱する、令和の"プロレス道場"のあるべき姿

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幸いなことに84年4月、第一次UWFが旗揚げした。この新団体は道場をアイデンティティーにしていた。

プロレスの原点はいつだって道場にあるという思想。すなわちキックの佐山聡。サブミッションの藤原喜明。この打と極を二大テクニックにして強さを追求していく勝負論。強くなる。強くなりたい。もうそれしかないというのがUWFだった。

プロレスの試合では派手な大技、必殺技がファンに持てはやされる。バックドロップ、ブレーンバスター、パワーボム。しかし、これらはわざわざ道場で練習することはない。ほとんどは寝技を中心にしたスパーリングである。お互いが関節技の極めっこをするのだ。

UWFの試合会場では客が入場するとそのスパーリングをあえて見せていた。その殺しの裏テクニックを知っているといないとではすべてが違ってくる。

アメリカでは会場で直接、レスラーに挑戦してくる怖いもの知らずの素人がいる。「プロレスラーは強くない。俺でも勝てる」となめているのだ。
それを迎え撃ち半殺し状態にして返してやるのがレスラーの役割だ。そうでないと示しがつかない。ビジネスが成立しなくなる。だから道場はそのための殺し屋集団養成所である。

見事なほど殺風景だった「UWFの道場」

さて、UWFは設立当初から資金不足が大きな問題としてあった。道場という広いスペースを確保しようとしたらそれなりの大金が必要。

その時、支援者が現れた。第一自動車運送のT社長だ。事務所の横にあった倉庫を道場として使ってほしい。どうぞ、どうぞというのだ。そこは新日本の道場があった二子玉川の反対方向にタクシーで10分ほど行った場所だった。

訪ねてみると吹きさらし状態。ただポツンとリングが置かれているだけ。シャワーは申し訳程度にあった。見事なほど殺風景だった。そこがまた哀愁が漂っていてUWFの生き方に合致していた。その素朴さ。シンプルさに惚れ込んでしまった私は何度、そこに通ったことか。

編集部があった水道橋とは距離的にも時間的にも、行けば半日がかりになる。練習が終わるとちゃんこになるが、新日本のような豪華な雰囲気はどこにもない。質素にして清貧。私はUWFではちゃんこをいただいたことはない。

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