イスラエルのガザ地区攻撃、ロシアのウクライナ侵攻「ジェノサイドを伴う現代の紛争」の自己正当化を図る犠牲者意識ナショナリズム
私の定義する犠牲者意識ナショナリズムとは、先祖が被った苦難の記憶を後の世代が引き継ぎ、自民族に道徳的な優位性と政治的な正統性があると主張する「ナラティブのテンプレート」である。世襲的犠牲者である国家は、その行動に内在的な正当性があるとされ、世界の中で存続する基本的権利を有するとみなされる。
この「存在論的な安全保障」観は、苦難に見舞われた当該国家の歴史を人類の普遍的課題に押し上げた地球規模の人権規範によって強化される。従前の神格化された英雄への崇拝から、犠牲者に対する尊崇へと原動力を置き換えることによって、ナショナリズムはグローバリズムの時代に適合し、生き残ったのである。
国境を超える記憶の枠組み
記憶のグローバル化は国境を超えた連帯をもたらすのみならず、絡み合った過去を巡る国家間の対立を激化させる。犠牲者意識ナショナリズムは、そのことをよく説明してくれる。さらに悪いことに、この対立は「どちらの国がより大きな犠牲を被ったのか」という不快な競争へと堕落する。
そして、本来は単純化できない人間の苦難が、下劣な「数の政治」とでも言うべきものへと矮小化されてしまう。そのようにして犠牲者意識ナショナリズムは、尊崇する対象であると主張する、まさにその犠牲者を道具化し、客体化し、非人間化することによって、単なる歴史的資産や象徴的資本へと変質させる。
逆説的なことに、犠牲者意識ナショナリズムは本質的に国境を超えたものである。犠牲者国家のアイデンティティは加害者国家のそれと不可分のものであり、共有する過去に関する絡み合った記憶の上で犠牲者意識ナショナリズムは花開く。ドイツとイスラエル、ポーランドとドイツ、あるいは日本と韓国の間で絡み合った歴史は、こうした依存しあう関係の代表例である。そこでは一方の国家が抱く苦難の記憶が、それに対抗しようとする他方の記憶を強化するという悪循環が起きる。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら