「医学部に行かないのならお金は払わない」親の呪縛で計10年に及ぶ浪人・留年を経験した彼の孤独な苦悩

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水木さんは、1986年1月1日、広島県の呉市に、整形外科医の父親と、看護師の母親のもと生まれました。

3歳ごろに横浜に引っ越した水木さん。幼稚園の頃には、登園の時間になっても「『おかあさんといっしょ』が見たいから」と言って2時間ほど遅刻する子どもだったそうです。

小学校に上がってすぐに千葉県千葉市に引っ越した水木さんは、小学校高学年くらいに通いはじめた塾で、「勉強についていけなくなった感じが出てきた」と振り返ります。

「集団塾に行っても授業の意味がわからず、ノートの取り方すらわからなくて、周囲からは置いていかれるし、点数も取れないから怒られるという負のループでした」

「まるでできない子どもだった」と当時の自分を語る水木さん。

中学受験では、面接だけで入ることができた埼玉県の秀明中学校になんとか入学し、寮生活を送りますが、ここでも成績は低迷したようです。

「最初のテストでは真ん中くらいでしたが、その後のテストでは学年に220〜230人いて100番台の後半か200番台でした。めちゃくちゃ勉強してこの順位だったんです。勉強の仕方がずっとわからないまま学年が進んでいきました」

医師になることは義務だった

当時、秀明中学・高等学校には、将来の夢の作文を原稿用紙2枚で書き、「秀明の塔」に収める儀式がありました。ここで水木さんは、「父親と同じ長崎大学医学部に行き、医師になりたい」と書きます。しかし、それは自分の意思に反した夢でした。

「実は教師になりたいと思っていました。ただ、親に中学生になった後、その旨を伝えたのですが、『どうやって生きていくの?』と聞かれて何も返せずに終わり、それからこの親のもとでは教員を目指すのは難しいと思いはじめました。『医学部に行かないのならお金は払わないから、自分で生きていきなさい』というスタンスの親だったので、中学生の頃には、親には何を話してもダメだと確信していました」

高校2年生の時の水木さん
高校2年生時の水木さん(写真:本人提供)
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