その後、雌伏のときを経てニクソン氏は1968年に大統領選挙に再チャレンジし、このときは民主党のハーバート・ハンフリー副大統領を破っている。選挙人数ではニクソン301対ハンフリー191、32州を押さえての堂々の勝利であった。
勝因は南部票の動きである。南部14州(バージニア、ウエストバージニア、ケンタッキー、テネシー、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージア、フロリダ、アラバマ、ミシシッピ、アーカンソー、ルイジアナ、オクラホマ、テキサス)のうち、1960年は共和党が5州しか取れなかったのに、1968年には12州を制している。さらに1972年は14州と「総取り」であった。この謎を解くカギが「南部戦略」である。
今のトランプ氏に重なる「ニクソン氏の南部攻略」
ケネディ~ジョンソン政権下で公民権運動が進んだことにより、南部では民主党政権に対する不満が溜まっていた。ニクソン氏はここに目をつけて、それまで民主党を支持してきた白人保守層を共和党に引き寄せた。この動き、ラストベルトの「忘れられた人々」を民主党から共和党支持に乗り換えさせたトランプ氏と重なって見える。
「南部戦略」は経済政策とも結びついていた。この時期、日本製の合成繊維や衣料品がアメリカ国内を席巻し、南部の繊維産業が打撃を受けていた。そこでニクソン氏は、日本を相手に「不公正貿易」だと圧力をかけ、南部の企業や労働者に恩を売ろうとした。
当時の佐藤栄作政権において、対米交渉の窓口となったのは田中角栄通産相である。当初、田中氏は「自由貿易」を盾に輸出制限に反対するが、最終的に輸出の自主規制という形で妥協を図る。国内の繊維業者に対し、巨額の補助金が支払われたことは言うまでもない。
ときに1971年のことである。翌年には沖縄が日本に返還されるのだが、この動きは「糸を売って縄を買った」(繊維問題で譲歩して、沖縄を取り戻した)と評されたものだ。そしてニクソン氏は、翌年の大統領選挙で挑戦者のジョージ・マクガヴァン上院議員を大差で破って再選されている。
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