人気再沸騰の温泉街「熱海」、駅開業100年の軌跡 当時の設計図に見る「貴賓室」もあった豪華駅舎

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「熱海線建設要覧」(鉄道省)によれば、鉄道調査所において1909年11月から「箱根別線」として国府津―沼津間の実地調査が行われ、1911年に実測完了。同年に第28回帝国議会の協賛を得て、1913年にはルートも決定した。

ところが、当時政権を担っていた第1次山本権兵衛内閣(1913年2月~1914年4月)は立憲政友会を基盤としていた。政友会は主に農村の有力者層を支持基盤としていたため地方利益誘導政策を掲げ、鉄道に関しては地方未成線の建設を優先。既設路線の「改良」は後回しにした(このような政策は揶揄的に「我田引鉄」とも呼ばれた)。

山本内閣において鉄道院(鉄道省の前身)総裁を務め、後に政友会幹部となる床次(とこなみ)竹二郎は、政友会の政策に従い熱海線計画を中止。そのため熱海線の建設着工は、次の第2次大隈重信内閣(政友会と対立する、後の憲政会系の勢力が基盤)後の1916年12月まで待たなければならなかったのである。

熱海線 東海道本線 工事現場 小田原市内
小田原市石橋付近の熱海線建設工事の様子(写真提供:大浜保彦さん)

関東大震災で甚大な被害

このように政党間の政争に翻弄されながらも、熱海線は1920年10月に小田原駅まで、さらに1922年12月には真鶴駅までの開通を果たしている。だが、ここでまた大きな試練に遭う。1923年9月に発生した関東大震災で、全線にわたって甚大な被害を受けたのだ。

「大正十二年 鉄道震害調査書」(鉄道省)には、熱海線の被害について次のように記されている。

「本線は震源地に最も接近せるのみならず、地質の大部分は粗密互層の集塊岩にして(中略)上部は土砂又は崩土を以て蔽はれ、比較的崩壊し易き急峻なる山腹を削りて僅に線路を設けたるところ多きを以て、その被害の劇甚なること各線中第一位にして(後略)」

なお、関東大震災における最大の列車被害も熱海線で発生した。山崩れのため列車が駅の諸施設とともに海中に墜落し、崩壊土砂に埋没。死者111人、負傷者13人を出した「根府川駅列車転落事故」である。(筆者注:数字は文献によって差異あり)

熱海線ではほかにも、鴨宮駅・早川駅が倒壊、小田原・真鶴・湯河原の3駅が傾斜大破し(湯河原駅は工事施工中)、軌道・トンネル・橋梁にも大きな被害が出た。このような試練を受けながらも、震災からわずか1年半後の1925年3月に熱海駅までの開通を果たしたのは、驚異的というほかない。

根府川駅列車転落事故 慰霊碑
根府川駅列車転落事故の遺族により建立された慰霊碑(筆者撮影)
【当時の時刻表】1926年、東京―熱海間は1日に何本の列車があった?
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