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人気再沸騰の温泉街「熱海」、駅開業100年の軌跡 当時の設計図に見る「貴賓室」もあった豪華駅舎

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  • 森川 天喜 旅行・鉄道作家、ジャーナリスト
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人車鉄道とは文字通り、レール上の箱状の客車を車夫が押すもの。このような原始的な乗り物が採用されたのは、当時、熱海温泉は名湯として知られてはいたものの30軒ほどの旅館が軒を連ねるにすぎず、採算を考慮した結果だったという。

ところが、実際に営業してみると、車夫の人件費がかさんで思うように利益が上がらず、1907年には小さな蒸気機関車が牽引する軽便鉄道へと進化したが、1923年に発生した関東大震災で甚大な被害を受け、翌年に廃止されてしまう。当時、すでに鉄道省によって熱海線(現・東海道線の国府津―小田原―真鶴―熱海―沼津間)の建設が進んでおり、1922年までに真鶴まで開通していた。熱海までの延伸開業も時間の問題だったことから、軽便鉄道はすでに将来性を失っており、復旧の必要性が認められなかったのだ。

小田原―熱海間を結んだ軽便鉄道で使われた機関車(筆者撮影)

「政争」に翻弄された熱海への鉄道

ただし、この熱海線の建設工事も順風満帆で進んでいたわけではなかった。そもそも着工にこぎ着けるのも大変だったのである。熱海線が計画された背景について見ていこう。

御殿場線ルートは最急勾配25‰(1000m走るごとに25m上る)という急坂が連続していることから強力な補助機関車を連結しなければならず、機関車の配置や乗務員の過酷な作業が、急増する輸送需要に対応する上でのネックになっていた。また、水害に見舞われることも多かったという。

こうした課題は早い段階から認識されており、御殿場線ルートが建設されてから約20年が経過する頃になると、「御殿場経由の線路を建設した当時に比べれば、トンネル掘削の技術は格段に進歩」(『神奈川の鉄道 1872‐1996』野田正穂ほか)していたことなどから、熱海線の建設が具体化する。

【写真を見る】人気再沸騰の温泉街「熱海」、駅開業100年の軌跡 当時の設計図に見る「貴賓室」もあった豪華駅舎(18枚)

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