米原駅、「北陸の玄関口」を行き交った列車の記憶 明治から続く「鉄道の要衝」老舗の駅弁販売終了
ある年の帰省時、仕事を終えた夜に新幹線「こだま」から、まだブルートレインに格上げされる前の急行「日本海」に乗ったときだ。旧型客車はデッキまで満員だったが、筆者が降りる武生までは1時間半ほど、少し我慢するかとぎゅうぎゅうの車内になんとか乗り込んだ。
何とか洗面所のあたりに落ち着くと、10代の女の子が洗面所の隅にうずくまっていた。「どこまで行くの」と尋ねると「青森まで」。恐らく集団就職などで関西に来て、帰省する途中だったのだろう。彼女がその後、青森まで座って帰れたか気になるところであった。米原は、さまざまな人生を乗せた列車が行き交う場所だった。

特急・急行華やかなりしころの記憶
鉄道写真家として列車を撮影するようになってからも、米原は重要な拠点だった。東海道本線の難所である関ケ原や、数多くの特急・急行が走り「特急街道」とまで呼ばれた北陸本線の撮影地などを回るのによい足場だったからだ。
とくに思い入れが深かったのは「ゆのくに」「立山」「兼六」といった急行列車だ。ひときわ目立つヘッドマークを取り付け、グリーン車2両にビュフェも連結した12両の長大編成は北陸路の華だった。


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