死後に名を残したいと願う人が見えていない盲点 根拠もなく、よい状況を前提にしていないか?
身体がないので、動くことも食べることも、飲んだり、歌ったりもできず、セックスもできず、ただ空気のような存在になってしまっては、肉体的な快楽を味わうことができない。
そう考えると、死後の世界は意外に味気なく、退屈であるのがわかる。
子どもや孫の人生を見守るというのは、霊魂の特権かもしれないが、それもせいぜい曾孫ぐらいまでで、玄孫やそれ以後の子どもは、自分とはまったく関係ないし、相手もこちらの名前さえ知らない状況で、見守るにしてもたいして興味も湧かない。
おまけにその子孫がバカだったり、自堕落だったり、鈍くさかったり、生き方下手だったりで、いくら導いても期待に応えてくれなかったら、イライラしてフラストレーションが溜まる一方だろう。
そんな状況が続くと、死後の世界に存在することに倦み、うんざりして、もう消えてなくなりたいと思うのではないか。
ホテルのソファでそんなことを考えながら、私は死後の世界があったらどうしようと不安になった。
都合のいいことを考えていませんか
いや、死後の世界はそんな世知辛いものではないと言う人もいるだろう。
死後の世界はもっと神聖で平安で、苦痛も患いもなく、懐かしい人にも出会え、だれと争うこともなく、憎しみも、嫌悪も、恨みも、軽蔑も、恐怖も、妬みも、失望もなく、嘆きもなく、悲しみもなく、もちろん差別やイジメもなく、数多のハラスメントもなく、すべての霊魂が平和で仲よく穏やかにすごせる場所。それが死後の世界と言う人もいるかもしれない。
魂は浄化され、あらゆることが調和して、宇宙の一部になるとか、大いなるものと合体するとか、とにかくよくわからないけれど、何の問題もない完璧な状況になると強弁するなら、やはり都合のよいことを考えていると言わざるを得ないだろう。
死ぬのは自分一人ではなく、これまで無数の人間が死んでいるのだから、あるとすればすべての人に死後の世界はあるはずだ。宗教もちがえば文化、風習、常識、価値観、歴史も異なる人々が、すべて満足できる状況などあり得るのか。
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