「子どもは好きですが、自分は母親業をできる気はしませんでした。仕事ならば割り切れますが、育児は終わりがないので……。家族仲はよかったのですが、自分自身には結婚は向いていないと思い込んでいました。ちなみに弟も独身です」
今から10年ほど前、そんな毎日に変化が生じた。体調不良が続いていた父親が癌のステージ4であることが判明したのだ。「明日からは君が塾長だよ」と言い渡された麻里さんは悩んだ末に管理職や経営者向けのビジネスセミナーを受講することにした。クラスは20人ほどで、4、5人のグループワークが多い。そこで同じグループになったのが英輔さんだった。
懇親会の自己紹介で麻里さんが返してきた言葉
料理店の座席で緊張気味に座っている英輔さんは中肉中背で白髪がやや薄くなっている。しかし、いかにも純粋そうなので年齢より若い印象を受ける。真面目で温厚な中学生がそのまま大人になったような男性だ。ただし、幼い頃から父親のギャンブル依存症で苦しみ、大学卒業後に就職してからは上司のパワハラに遭って体調を崩したこともあると明かしてくれた。
「40歳の少し手前で、会社のトイレで倒れてしまいました。うつの典型的な症状だったようです。当時は両親が相次いで病気になり、会社では上司から厳しく責め立てられていました。心が擦り切れてしまったのだと思います」
営業現場から本社のスタッフ部門に異動になり、さらに子会社へ出向となった英輔さん。「左遷だ」と自嘲しつつも今度は上司に恵まれ、管理職への昇進試験を受けられる立場になった。その勉強のために参加したのがビジネスセミナーだった。
「受講生の懇親会で自己紹介をしたとき、私は自分の経歴を少し自虐的に話しました。左遷みたいなもので今の勤務先にいる、と。そうしたら麻里さんが『そういう風に考えるのは変じゃない?』と返してきたのです。この人は何なんだろう、とビックリしました」
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