無人駅なのに駅員がいる「簡易委託駅」誕生秘話 「石破首相の父」提案きっかけ?鳥取から全国に

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国鉄は東海道新幹線が開業した1964年度から赤字経営になり、このころから経費削減の一環として利用者の少ない駅の無人化を推進。当時は1日平均の乗車人員800人以下を目安に駅の無人化を進めていた。1970年春、因美線の駅の無人化計画を発表する。

因美線は鳥取市から中国山地に入って岡山県津山市を結ぶ路線。鳥取県内の駅は12駅で、このうち1950~1960年代に開業した2駅を除く10駅が有人駅だった。計画では10駅のうち津ノ井・河原・国英・因幡社・土師・那岐の6駅を10月1日に無人化するとしていた。

しかし駅の無人化は、たとえば切符の購入について相談にのったり、列車の運行状況を案内したりする人がいなくなるということでもある。当時はスマートフォンで運行状況を確認したり、ICカードやネット予約を利用したりすることができなかった時代。当然、無人化に反対する利用者も多かった。

珍しかった「女性駅員」

因美線でも反対の声が挙がり、河原駅では無人化反対の期成同盟会が発足するなど反対運動の組織化が図られるほどだった。そこで浮上したのが切符販売の外部委託だ。国鉄の旅客局長や常務理事を経てJR東海の初代社長を務めた同社顧問の須田寛は、当時のことを次のように語っている。

そのとき石破二朗鳥取県知事は「無人化はやむをえない。しかし駅舎を貸してもらって、民間の人が駅を使って何らかの商売ができるようにしてほしい。あわせて切符も売るから、駅舎を無償で貸してもらえないか」と提案してきたのです。新しいアイデアなので会計検査院などとも相談し、無償かそれに近い値段で地元の人に貸与して商売をしてもらう代わりに切符も売ってもらうようにしました。
<須田寛・福原俊一(聞き手)『須田寛の鉄道ばなし』(JTBパブリッシング、2012年3月)より引用>

このような駅の運営は私鉄も含めれば以前からあった可能性がありそうだし、国鉄バスの駅は1950年代に簡易委託を導入している。石破知事の提案も発案は知事の部下などの可能性があるだろう。とはいえ知事の提案をきっかけに国鉄が委託先を探しはじめたのは確かなようだ。

石破二朗 鳥取県知事 自治大臣
石破首相の父の石破二朗。鳥取県知事だったころに切符販売の外部委託を提案した。写真は鈴木善幸内閣の自治大臣就任記者会見の様子=1980年7月17日(写真:時事)
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