知られざる小中高「格差」

日本の先生、とくに小学校の先生は従順すぎると思う。この状況で文句ひとつも言わない。

冒頭からやや挑発的な言い回しをしたのには理由がある。次のデータをご覧いただいたほうが早い。教員が担当する授業時間数を示したものだ。2022年の小学校では1週間あたり21~25コマが47.5%、26コマ以上が37.2%で、多くの先生が1日5~6コマの授業に出ずっぱりだ。

小学校では、職員室に教頭(もしくは校長)以外誰もいないなんてことも珍しくないとよく言われるが、それはみっちり授業が入っているからだ。ていねいな支援が必要な子がいたり、お休みの先生がいたりしたら、担任以外の先生や管理職が向かうので、職員室がカラになることも。これはセキュリティ上も大問題だ。

小学校の学級担任は、給食や掃除の時間も指導の時間とされ、労働時間だし、児童の休み時間も見守りをしたり、慌ただしく次の授業の準備をしたりするので、休めていない。過密労働、ノンストップ労働なのだ。2016年と比べると、26コマ以上の人が減っているのはよいことだが、依然として厳しい状況であることには変わりない。

想像してみてほしい。6時間目まで授業がある日に6コマとも埋まっている。給食や掃除の時間もトラブル防止に向けて慌ただしい。トイレに行く暇もないくらいだ。やっと授業が終わったと思ったら、時計の針はすでに15時30分を回っている。

その後、勤務時間が終わるまで約1時間半(うち本来は45分の休憩が入るが、誰も取れていない)のうちに、打ち合わせもあるし、事務作業もたまっている。これで、働き方改革だからといって、「残業は少なくせよ」と言われても、勤務時間の中で授業準備をしたり、同僚とじっくり相談したりするヒマはほとんどない。そういう小学校の先生は少なくない。しかも、そんな状況下で、

・授業の質を高めよ
・国語、算数、理科、社会、英語(外国語)、体育、図工、音楽、家庭科、道徳と10教科前後も担当するが、大学のときに勉強しているから大丈夫でしょう(さらに学校行事や学級活動などの特別活動もあるが)
・特別支援の知識、専門性も高めて、ケアできるように
・不登校の子へのケアも忘れないで
・ふだんは大人しくても悩んでいる子はいないか、いじめを見逃していないか

などと要求されるのだから、無理がある。

妹尾昌俊(せのお・まさとし)
教育研究家、一般社団法人ライフ&ワーク代表
徳島県出身。野村総合研究所を経て、2016年に独立。全国各地の教育現場を訪れて講演、研修、コンサルティングなどを手がけている。学校業務改善アドバイザー(文部科学省委嘱のほか、埼玉県、横浜市、高知県等)、中央教育審議会「学校における働き方改革特別部会」委員、スポーツ庁、文化庁において、部活動のあり方に関するガイドラインをつくる有識者会議の委員も務めた。Yahoo!ニュースオーサー。主な著書に『校長先生、教頭先生、そのお悩み解決できます!』『先生を、死なせない。』(ともに教育開発研究所)、『教師崩壊』『教師と学校の失敗学』(ともにPHP)、『学校をおもしろくする思考法』『変わる学校、変わらない学校』(ともに学事出版)など多数。5人の子育て中
(写真は本人提供)

実際、中学校教員らも忙しいが、冒頭の表のとおり、中学校や高校の担当授業数(持ちコマ数)は小学校と比べて、ずいぶんマシである。高校にいたっては1週あたり10コマくらい小学校より少ないし、給食指導もない。しかも、中高は教科担任制なので、1回分の授業準備で、複数クラス「使いまわす」こともできるが、小学校の先生は毎時間の準備が必要だ。

高校のほうが高度な内容を教えるから大変だ、という見方はあろうし、私も高校の先生の専門性をリスペクトしているが、小学生相手に基礎基本を教えることだって、とても高度なことだ。読者のみなさんも、例えば分数の割り算をわかりやすく教えることはできるだろうか?

別に、小中高でいがみ合ったらよい、と言いたいわけではないが、小学校の先生はもっと怒っていいと思う。怒る先は、人手も予算も付けない中央政府(文部科学省、財務省)と国会に対してだ。前述のデータを見たら、海外の小学校教員なら、ストライキものではないかと思う。なお、日本の公務員は労働基本権が大きく制約されており、ストライキは違法となる。

以上のことから、日本の先生は従順すぎる、と述べた。おそらく、こうした「格差」があることを知りもしない教員も多い。しかも、教職員組合への加入率も下がっているので、勉強する機会は少ないし、声も上げにくい。

労働基本権のことも含めて、日本の先生たちは、なるべく抵抗しないように、いわば牙を抜かれてきた歴史があるわけだが、本人たちは忙しく走り回ってはいるが、牙を研ごうとしていない。小学校等の先生は授業研究には熱心だが、自分たちの労働環境や勤務条件についても、もう少し関心を高めたほうがよいと思う。

文科省の認識と、平均思考の危うさ

こうした事態について、文科省はもちろん知っているし、問題意識がないわけではない。だが、私の個人的な見立てとしては、まだまだ本気度が低い。

先日8月に出たばかりの中央教育審議会の答申でも、以下の言及がある。

○ 教師にとって、週時程の中で授業を担当しない時間が少ない場合に、教材研究を含む授業準備や成績処理等の業務を主に放課後等に行わざるを得なくなり、結果として、教師の時間外在校等時間が長くなる要因となるため、持ち授業時数が多い場合にはその軽減が必要である。

○ 令和4年度学校教員統計によれば、教師の週当たりの平均持ち授業時数は、小学校で24.1 単位時間、中学校で17.9 単位時間、高等学校で15.4 単位時間となっており、小学校は、教師が授業にかける時間の割合が中学校及び高等学校よりも多く、持ち授業時数の軽減と業務の精選・適正化を併せて図る必要がある。

出所:文科省「令和の日本型学校教育」を担う質の高い教師の確保のための環境整備に関する総合的な方策について

 

この記述自体は誤っているものではない。だが、こうして平均値をもとに観察することには問題がある。

ここで1つ、たとえ話をしよう。あなたは、中小企業の社長だ。従業員は5人。Aさんは毎日遅くまで働いていて、月の残業が80時間という過労死ラインに達している。ほかの4人の残業時間はそれぞれ月10時間だ。平均すると、(80+10×4)÷5=24で、「残業は月24時間程度、1日1時間くらいなので、うちはホワイトな職場だ」と胸をはって言えるだろうか?

Aさんが過労で倒れてしまうかもしれない中、事態は楽観視できないと考えるのが社長の考えとしては自然だし、妥当だろう。つまり、平均値だけ見るのではなく、しんどい人やつらい思いをしている人の状況を重視しなければ、健康経営とは言えない。

こんな小学生にでもわかるような理屈を、中教審・文科省は無視している。しかも自分たちが実施した勤務実態調査のデータもあるのに、わざわざ教員統計調査のほうをもってきて記述している。

なぜ、小学校教員の担当授業数は多いのか?

小学校の先生の持ち授業数が多い問題の背景には、義務教育標準法という法律がある(高校については高校標準法)。教員定数という国が決めている標準的な教員数は、基礎定数と呼ばれているものと、加配定数という+α分があるが、大部分は基礎定数である。その基礎定数というのは、大部分、次の計算式に基づいて算出されている。

「学級数×係数」だ。これだけ?と言われれば、これだけの式。「学級数」というのは、小学校では1学年35人以下学級と上限が決まっているので、例えば、1学年40人児童がいれば2学級となる。学級数は、少子化の影響を受けるが、児童数と直接リンクするわけではない。もともと1学年に30人しかいない小規模校が、20人に減っても、1学級のままだ。

それより問題なのは係数のほうだ。「乗ずる数」とか「乗ずる率」とも呼ばれる。次の文科省資料のとおり、小学校と中学校ではこの乗ずる数が異なっており、同じ学級数でも中学校のほうが比較的大きな係数となっている。

出所:文科省「令和の日本型学校教育」を担う質の高い教師の確保のための環境整備に関する総合的な方策について(赤字枠囲みは筆者による)

同じ義務教育なのに、なぜ、乗ずる数が違うのかと言われれば、中学校は教科担任制を前提としていて、小学校は学級担任制を前提としているから、というのが文科省の説明だ。中学校では小規模校を除いて、少なくとも9教科の教員は配置しておかないとならないのに対して、小学校ではそうした制約はない。

以上の事情から乗ずる数が小さい小学校、つまり学級担任以外の教員数が比較的少ない小学校では、大規模校を除いて、1年目の新人から学級担任を担わないと回らないような体制だし、新型コロナをはじめとして感染症のときも代替できる人が少ない脆弱な体制なのだ。

世間と政治家の注目を浴びにくい、乗ずる数の問題

義務教育標準法が成立したのは1958(昭和33)年。何度か改正されているが(直近では小学校の35人以下学級化など)、小・中学校の教員数を「学級数×係数」で決める基本的な考え方は、60年以上変わっていないし、乗ずる数の大幅な改善もなされていない。

国政選挙などでも、もともと教育について注目されることが少ないという問題に加えて、各政党や候補者が言及しても、おそらく少人数学級のほうではないだろうか。たしかに1クラス小学校で35人、中学校、高校では40人最大いるというのは、個別最適な学びなどと言っておきながら問題があるが、クラスサイズが変わっても(例えば30人以下学級になっても)、1日6時間目までの授業を出ずっぱりという事態の改善にはならない。

義務教育標準法の計算式を思い出してほしい。学級数だけを変える改革では不十分であり、乗ずる数の改善こそ、教員の授業準備時間や休憩するゆとりを取り戻す上では不可欠だ。

だが、少人数学級の話あるいは給食費無償化などの話題に比べて、乗ずる数のことや標準法の仕組みはややわかりにくい。新聞やテレビなどのメディアもあまり取り上げようとしない。おそらくそうしたことも影響して、国会議員の関心としても、文科省の政策上の優先度としても、ここ数十年あまり高まってこなかった。

もっとも、近年は小学校での教科担任制を一部導入する動きもあり、文科省もまったく無策であるわけではない。だが、一部教科担任制の導入は加配定数といって、将来も確約された教員数確保ではないし(毎年の予算折衝が必要)、冒頭で紹介したデータのとおり、まだまだ過酷な事態は続いている。

教員不足が深刻化する中「人手不足なのに、標準法を変えたところで、教員数は確保できないでしょ」と思う人もいると思う(きっと財務当局にはそう言われる)。確かにその心配はもっともだが、2点申し上げておきたい。

1つは、急激に進む少子化の中で、「学級数×係数」という算定式のうち、学級数は減っていく(特別支援学級の増減など別途考える事情もあるが)ので、中長期的には必要教員数はダウントレンドである。つまり、乗ずる数の改善をしても、急に教員採用を大幅に増やす必要性は薄い。

もう1つは、因果関係が逆である可能性だ。ここで述べてきたような過密労働を放置し、あるいは1年目の4月当初から重責の学級担任を負わせているような体制を維持してきたから、教員を目指さない人が増え、人手不足が拡大している可能性もある。

あちこちで人手不足の日本社会の中で、学校にばかり人をよこせ、と言いたいわけではない。だが、10年先、20年先の社会を支える今の子どもたちの学びやケアに直結するのが、今回述べた教員数の話であり、教員の勤務環境の問題だ。勤務時間の中で、しっかり授業準備ができ、多少コーヒーブレイクくらいとれる。そんなことを当たり前にしていくことは、高望みなのだろうか?

参考文献
・山﨑洋介・ゆとりある教育を求め全国の教育条件を調べる会『いま学校に必要なのは人と予算―少人数学級を考える』新日本出版社
・トッド ローズ『平均思考は捨てなさい──出る杭を伸ばす個の科学』早川書房
・妹尾昌俊・工藤祥子『先生を、死なせない。――教師の過労死を繰り返さないために、今、できること』教育開発研究所

 

(注記のない写真:Fast&Slow / PIXTA)