子どものために時間を使いたいのに、校務に追われる日々
水野氏が教員を志した原点は、小学6年生頃にさかのぼる。家業で忙しく、家を不在にしがちだった両親に代わり、寄り添ってくれたのが理科の教員だった。その姿に「誰かの人生にプラスの影響を与えられる仕事はいいな」と憧れを抱いたという。

愛知県の公立中学校で理科教員として5年間勤務。2022年に退職し、YouTube「やんばるゼミ」や学習アプリ「理科単語ウルフ」の開発を通じて教育支援を開始。2025年には授業アイデアの共有サイト「せんせい市場」を開設し、教員の多忙や孤立の解消、子どもたちの多様な学びを支える仕組みづくりに挑んでいる
その思いが、大学卒業後の進路に直結。愛知県の公立中学校で理科教員としてキャリアをスタートさせた水野氏は、授業、進路指導、部活動、行事運営など、あらゆる業務をこなす日々を送った。忙しさはあったが決して嫌ではなく、むしろやりがいを感じていたと振り返る。
「多忙だったのは間違いなかったですが、毎日楽しかったんです。教材をしっかり研究して納得のいく授業ができれば、生徒の楽しそうな反応が返ってくる。理解された瞬間は、まさに教員冥利に尽きる気持ちでした」
しかし、少しずつ違和感が積み重なっていく。生徒と向き合いたい思いとは裏腹に、膨大な校務が水野氏の時間を奪っていった。業務は深夜まで及び、帰宅後も教材作成や成績処理に追われる。休日を返上しても仕事は終わらない……そんな毎日を繰り返すうちに「なぜこんなに忙しくなるのか」という疑問が頭をよぎるようになった。
「子どもたちのために時間を使いたいのに、それができない。本来不要な雑務に時間が奪われることに、もどかしさを感じ始めました。それ以来、学校が抱える構造的な問題を解消する術はないのか、と考えるようになったのです」
当時、仕事に全精力を注げる環境にあった水野氏でも、準備不足への罪悪感や業務の飽和感に押しつぶされそうになったという。この経験から水野氏は、教育現場には“教員一人ひとりの努力だけではどうにもならない課題”があることを悟り始める。とりわけ深刻だと感じたのは、「長時間働ける人」と「定時で帰る人」の間に生じる壁だった。
「子育てや介護をしていて定時で帰らざるを得ない教員は、周りからどうしても“頑張りが足りない”と見られてしまいがちです。とくに生徒たちは素直なので、授業の質の違いをそのまま口にすることも。『あの先生の授業がよかった』などと言われれば、劣等感を抱えると同時にやりがいまで失いかねません。こうした状況も、教員のモチベーション低下を招く要因になっているようでした」
教員の負担を支える仕組みも、業務を分担できる余白もない。学校内部からの変革を試みようにも、教員の個の力に限界があると痛感し、水野氏の中で「外から教育を変える」という選択肢が現実味を帯び始めた。
教室の“外”から改革開始、カギは「ノウハウの共有」
ちょうどその頃、コロナ禍で学校が一斉休校となった。水野氏はこの期間を活用し、タブレットで使える教材アプリを制作。同僚にシェアしたところ評判を呼び、市内の全中学校にも導入されて、多方面から感謝の声が寄せられた。
ここで、教員とICTの融合にたしかな手ごたえを感じたという水野氏。多忙で疲弊する教員を支えられるようなツールを、自分の手で届けられるかもしれない……。そして、「教員を辞める不安や怖さよりワクワクが勝った」という水野氏は、2022年3月に退職。5年間の教員生活に幕を閉じ、新たなフィールドに足を踏み入れた。
退職翌日、早速YouTubeチャンネル「やんばるゼミ」を開設。「授業の面白さを取り戻す」べく、授業づくりやICT活用の情報発信を始めた。

実は、教員時代に一度、授業の復習用動画をアップできないか、管理職に掛け合ったことがあったそうだ。
例えば、自分の授業準備の様子を撮影して、実験に失敗する様子や独り言などを収めれば、子どもたちも楽しんで復習ができますし、他の教員の授業づくりにも活用できるのではないかと思いました。『関係者のみの限定公開でもいい』と意見しましたが、最後まで『YouTube活動は公務員の信用失墜行為に当たる』と認められませんでした」
しかし、ひとたび学校の外に踏み出し、YouTubeチャンネルを始めてみると、このような動画にはたしかなニーズがあった。現在、チャンネル登録者数は約55万人にものぼる(2025年6月現在)。
同時に、教員時代から温めていた「教員のノウハウを共有できる場づくり」にも乗り出した。
「教員はそれぞれ、独自に優れた授業ノウハウを持っています。しかし、これが共有されることはなく、各教室に埋もれているのが実態です。授業をものすごく上手に展開できる先生がいても、それを継承する文化も時間もないことに違和感がありました。教員は妙にストイックで、『まずは自分でやりきるべき』という空気感があるため、他の先生の授業を参考にする機会もなかなかないんです」
具体的な「場」となるのは、優れた教材や授業案を共有できるオンラインサイトだ。水野氏はこの構想を退職の数年前から描き始めており、機能の洗い出しなど水面下で検討を重ねてきた。退職後はクラウドファンディングを実施。まだプロジェクトの知名度も低かったにもかかわらず、教員やその家族を中心に想像以上の支援が集まった。最終的に目標額の140%を達成し、期待値の大きさを感じたという。
3年間の準備を経て、ついに2025年4月3日、同じ志を持つ仲間と教材・指導案共有サイト「せんせい市場」を正式リリースした。全国の教員が自作の資料を並べ、それらを見て回って「これを調理すれば子どもが喜びそう」と思えたものは持ち帰る。まるで市場で魚を選ぶような場をイメージしたという。

特徴は、共有された教材や指導案に「いいね」や「コメント」を付けることができて、その数がランキングで可視化される点だ。アカウントは、匿名でも作成できる。目指したのは“投稿したくなる”サイト。SNSのように「投稿すること自体に価値がある」と感じられる工夫を凝らしている。

「私がつくりたいのは、全国の授業アイデアが集まり、自分の授業が評価され、そして互いにブラッシュアップされるプラットフォームです。教員が短時間で上質な授業を準備できるようになれば、より多くの時間とエネルギーを子どもたちに注げます。忙しい教育現場でも、当たり前に子どもたちに質の高い教育を届けられる、そうした社会を目指しています」
法的問題はクリア、残るは投稿のハードルを下げること
とはいえ、教材や指導案は教員のアイデンティティに深く結びつくものだ。ゼロから教材を作るやりがいが失われはしないのだろうか。素朴な疑問に対して水野氏は、「本当に授業を面白くしようと思ったら、他人の力も借りたくなるものです。ゼロから生み出すのはプロや得意な人がやればいいですが、一人ひとりの子どもたちを思い浮かべてそれをアレンジするのは、それぞれの先生にしかできません」と説明する。

模倣は創造の第一歩になりうる。「せんせい市場」は、発想の転換を促す場としても機能しているようだ。
「指導案が集まるプラットフォームがあれば、若手教員はもちろん、ベテラン教員もたとえば新カリキュラムが出た際などは参考になるはずです。実際、『探しても見つけられなかった指導案があって嬉しい』などの声が届いています。指導案を通じてほかの教員の授業観が可視化されたことで、同じ単元でも多様な進め方があるという発見もあるようです」
【教科の選択】:国語、算数、数学、社会、理科、生活、英語、音楽、図画工作、体育、美術、技術、家庭、道徳、総合、特活、教科なし(全ても選択可能)

(画像は東洋経済撮影)
【学年の選択】:小学1年〜中学3年(「全て」も選択可能)

(画像は東洋経済撮影)
【単元の選択】:学年、教科ごとに選択(「全て」も選択可能)

(画像は東洋経済撮影)
しかし、壁もあった。その1つが教材や指導案の投稿数だ。著作権や個人情報の取り扱いに対する不安から、投稿する側に「本当にアップロードして大丈夫?」と心理的ハードルがあったという。そこで、投稿時に丁寧なチェック項目を設けたほか、個人情報などを隠せるサイト独自の編集機能を開発した。さらに、運営サイドでサイト内を常時回遊し、掲載物の不備をチェック。利用者からの報告機能も整備済みだ。


「それでも不安に思う方や、確認作業を煩雑に思う方もいると思います。そこで、サイト内に簡易的な投稿箱を設けて、運営側が責任を持って個人情報などを処理した後に掲載する方法も用意しています」
「せんせい市場」は弁護士の推薦も受けており、投稿自体に収益が発生しないことや、教育公務員特例法が適用されることなどから、投稿に際する法的な問題はクリアしている。また、主な閲覧者は教員なので、そのリテラシーの高さに期待して、報告機能の有効性も見込まれている。今後は「もし、学校で使用する指導案や教材の著作権が自治体に帰属するようになれば、文字通り全国の指導案を共有できるのですが……」と水野氏は本音を漏らす。
こうした教員コミュニティの広がりが、やがて教育界全体の変化につながると展望する水野氏。教員一人ひとりの教室で生まれた創意工夫が、全国に共有され、誰かの学びとなっていく。「せんせい市場」は、いわば教室そのものを拡張する試みへと発展しつつある。
授業は本来、教員と子どもが一番関わる「楽しいもの」
また、新たな試みとして、教室そのものが合わずに苦しむ子どもたちの居場所づくりにも参画しているという。
「発達障害のある子どもたちが、自分に合った学び方で力を伸ばせるような支援もしたいと思っています。現在、支援現場と連携しながら、子どもたちそれぞれの認知特性に応じた学習支援のあり方を検討中です。いずれは無償で通える教室というかたちで、居場所を届けたいと考えています。
挑戦は始まったばかりですが、『授業』は先生と子どもたちが一番関わる場であり、本来とても面白いものです。そう思える先生が1人でも増えてくれたら嬉しいですね。そして1人でも多くの子どもたちが、強制されて授業を受けるのではなく、学ぶことを楽しいと思うことができれば、と願っています」
水野氏は「せんせい市場」について、「実は自分のサイト自体にこだわりはなくて、今後買収されたとしても、まったく別の優れた仕組みがつくられたとしても、それで良いと思っているんです。教員と子どもたちのために、何かしらの波紋を生むことが私の使命です」と語った。
教員が当たり前に楽しい授業を展開できる未来。そしてどんな子どもたちも、当たり前に楽しく授業を受けられる未来。水野氏の視線の先には、学校の内外を問わずどこにでも開かれた「学びの場」がある、そんな世界が広がっている。
「せんせい市場」を見る
(文:末吉陽子、注記のない写真:水野氏提供)