米紙の行くべき街に「山口」日本人が知らない魅力 京都を模した街並みと古刹に感じる居心地の良さ
もう一カ所、ぜひとも訪れたいスポットがあった。雲谷庵跡と道を挟んだ場所にある「菜香亭」である。明治10年の創業から平成8年まで著名人に親しまれてきた料亭を移築復元した建物で、明治、大正、昭和、平成の歴史の舞台となった。
菜香亭の名付け親である明治の元勲・井上馨の還暦祝い、伊藤博文の夜会などが行われるなど「山口の迎賓館」として存在感を放ってきた。大広間には伊藤博文、山県有朋から佐藤栄作、安倍晋三など県出身の政治家の書が並んでいる。明治以降の政治家や文人たちの交友を通じた歴史の断面が刻み込まれた現場をじっくりと見学したかったのだが、あいにく休館日でかなわなかった。
種田山頭火が居を構える
再び一の坂川沿いの道をぶらついていると、種田山頭火の句碑が目に留まった。
おいとまして 葉ざくらの かげがながく すずしく
昭和9年(1934年)頃、山頭火が参加していた後河原(一の坂川が流れるあたりの地名)の旧家での句会で詠まれた一句のようだ。句碑の解説には、漂泊の俳人・種田山頭火は後河原をこよなく愛したとある。
西日本を中心に放浪の日々を送っていた山頭火が1932年、50歳の時に小郡町(現山口市小郡)に「其中庵」を設けた。その家を事前に見分に出かけた際の様子を、山頭火はある随筆の中にこう書き残している。
山手の里を辿って、その奥の森の傍、夏草が茂りたいだけ茂った中に、草葺の小家があった。久しく風雨に任せてあったので、屋根は漏り壁は落ちていても、そこには私をひきつける何物かがあった。私はすっかり気に入った。
漂泊の旅を続けてきた山頭火は、こうして生まれ故郷・防府に近い小郡に居を構え、この地に6年間とどまって4つの句集を出版するなど充実の日々を送ったとされる。
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