ひろゆきに憧れ「論破」しがちな人の残念な盲点 「論破なんてやたらめったらやるもんじゃない」
哲:「お手柔らかにお願いします。早速ですが、論破をしようとすると、個人の感想よりデータが重視される傾向にあると思うのです。感想を述べると、ひろゆきさんをマネしたがる人に『それってあなたの感想ですよね?』といわれて終わり、といったように……。
でも、実際には『個人の感想』が大切な場面だってあると思うのですよ。たとえば『労働者の給料はもっと上がらないのか?』といった議題では、データ的には『難しい』で終わりかもしれませんが、実際の仕事に就いている人は生活が困窮している場合もあります。」
ひ:「『それってあなたの感想ですよね』も、おいらは1回いっただけなんですよ……。で、本題に戻ると、おいらだってその大変さを軽んじる気はないんですよ。でも、その『感想』で課題が解決するかというと、そうではないわけです。感想をもつのは自由なのですが、物事を前に進めるためには事実と感想は分けて、事実ベースでどうすべきかを考えたほうがいいでしょう。
理系の人なんかは慣れてるんですが、いまだに事実と感想を切り分けられない人はけっこういるので、そこは意識されるべきだなと思います。」
哲:「失礼しました。けれども、感想、つまり主観的なことと客観性はそんなにはっきり区別できないように思えます。たとえば哲学者ヘーゲルは、人間の社会が『人々が互いに欲求と労働とを媒介にして成立する』と述べています。つまり人間は、まず、感覚や欲求から始まって、それを理性的に考えるものなので、『感想』を先にいうのは、しょうがないのではないでしょうか。」
人間は、欲望から始まって理性的な解決を行っていく。ヘーゲルの『法の哲学』によると、自己の欲望を追求することで、欲望の体系(市民社会)が形成される。
ひ:「いや、感想から入っても客観的なデータを示してもらえればいいんですが、感想で終わってしまう人が多いんですよ。だから、おいらが『この職業はこういう原因で給与が上がりにくい』というと、『その職業を軽視しているのか!』と怒る人もいるんです。でも、少なくとも事実としてわかっている部分はきちんと認識しなければ、改善策を正しく講じることすらできない。物事が改善せず、かえって自分で自分の首を絞めてしまうかもしれません。」
実際の生活のなかでは論破はほとんどしない
哲:「それは理解できます。でも、『論破』をあまりによしとすると、『単に口がうまいだけのヤバい人がのさばる』ということもありえると思うんです。古代ギリシアの時代には、ソフィストたちが『どうやって相手を論破するか』を説いて回った時代があったわけですが、それによって社会が退廃したともいわれています。」
ひ:「まぁ、前提として論破なんてやたらめったらやるもんじゃありませんよね。」
哲:「そうなんですか……。」
ひ:「はい。おいらだって実際の生活のなかで、論破なんてほとんどしないですから。でもまれに、いわゆる『論破』的なテクニックを使うときもあります。それが、『ヤバい人』を封じるときなんですよ。」
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