生産性上昇は、10年以上にわたり絶望的に低い。結果として、富裕国は21世紀の成長がトレンドのまま続いていた場合に比べ、1人当たりの稼ぎが25%ほど低い。低成長期があること自体は不思議ではないが、現在のわれわれの停滞は、あまりに長く続いているし不可思議だ。
それは超低金利にも、経済を刺激するための各種の非伝統的な試みにも反応しない。そしてそれは、新技術やそれを活用する新ビジネスへの広範な熱狂と共存しているのだ。
資産で見ても所得で見ても、格差は1980年代以来、目に見えて増大しているし、下がる様子がない。だが今日の格差は、単に持てる者と持たざる者という話ではない。むしろそれは、尊厳の格差とも言うべきもので複雑化している。つまり、ステータスの高いエリートと、文化や社会変化に取り残されたステータスの低い人々との間に、分断があると思われているのだ。
尊厳と物質的豊かさとの間にはある程度の相関はあるが、完全な相関ではない。現代に取り残されたと感じる人々の多くは資産の多い引退者だし、一方でリベラルなエリートには、無一文で負債を抱えた大卒者が大量にいる。
競争が機能していない
市場経済の原動力たる競争は、あるべき形で機能していないようだ。企業の業績は見たところ、昔より固定してしまっている。アマゾンやグーグルのような、数兆ドル規模の企業は、絶えず後続企業を上回る業績をあげ、すさまじい利潤を計上する。新興企業の数は減り、人々は転職したり、仕事探しで引っ越したりしなくなった。
ここでもパラドックスが見られる。というのも多くの人は、経済生活においては熾烈でストレスまみれの、無駄な対立が高まっている気がすると不満を言っているからだ。客観的に見て豊かな人々や、金持ちですら、立場を維持するのにますます頑張って働かされる羽目に陥っているらしい。