米国が震撼「銀行パニック」が恐ろしい深淵理由 一流経済学者が教える、1913年FRB創設の裏側
ニッカーボッカー信託銀行が支払い停止になると、あらゆる銀行で取り付け騒ぎが起きた。国内銀行では預金者が長蛇の列をなし、ニューヨークではそうした国内銀行が自行の預金を現金化しようとしていた。おかげで生じた商業の混乱は、国の経済生産を激減させた。1907年から1908年にかけて、実質産出量は11%も減った。
ロードアイランド州代表の有力な共和党上院議員で、ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの義父であるネルソン・アルドリッチは、全米金融委員会の議長に任命された。
かれは2年近くヨーロッパに行って、中央銀行制度を勉強してきた。戻ってくるとアルドリッチは、ニューヨークの主要銀行家4人と、ジョージア州沿岸のジキル島クラブに1週間極秘でこもった。
そこで一同は、ある程度の改訂を経てだが、連邦準備制度の基盤となる計画を生み出した。これは預金から通貨への逃避問題(取り付け騒ぎ)を解消するよう設計されていた。
不足していたのは、通貨でなく、安心
FRBは、信用を提供する力を与えられ(そのための割引窓口だ)、また一時的に、特にパニック時に現金が必要な銀行に対しては、現金を提供できることになった。FRBが1913年に創設されたとき、この「柔軟な通貨」の提供は大きなイノベーションだと考えられていた。
この最後の貸し手は、他のだれも信用を供与しないときに、信用を供与する役目を持つのだ。
柔軟な通貨をFRB経由で提供することの本来の動機は、安心とその反対のパニックに対処するためだったというのに注目。
こうした問題は、1907年のパニック以降、金融改革の提案との関連でよく議論されていた。実際、マサチューセッツ州の上院議員ヘンリー・カボット・ロッジは、パニック直後の1908年に上院の議場で発言したとき、こう指摘している。
「パニックの最中に不足していたのは通貨ではなく、安心であったが、こうした場合にはいつもそうなのだ」
1911年、ネルソン・アルドリッチが中央銀行型のアメリカ国家機関設立を主張し続けているとき、『ワシントン・ポスト』の社説は状況をこうまとめた。
「まずは何らかの中央機関が必要である。それにより、来る危機は、結集した力を持って対峙されて追い払われるであろう――あらゆる銀行やあらゆる金庫が自分だけを守ろうとあわてふためき、パニックを広めたり強化したりするのではだめだ。
1907年にはこれが起きた。人々を落胆させたのはまさに、銀行同士がお互いについて安心できなかったということなのである」