純文学の登竜門「芥川賞」意外に知らない創設背景 日本一有名な文学賞、第168回は1月19日に発表

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しかし、雑誌の売れ行きは順調そのものだったが、菊池は編集者としての仕事に重きを置くようになり、小説を書かなくなっていた。そのため、芥川から苦言を呈されてしまう(以下、菊池寛『芥川の事ども』より)。

「『文藝春秋』を盛んにするためにも、君が作家としていいものを書いて行くことが必要じゃないか」

芥川の忠告に対して、菊池は「いや、僕はそうは思わない。作家としての僕と、編集者としての僕は、また別だ。編集者として、僕はまだ全力を出していないから、その方で全力を出せば、雑誌はもっと発展すると思う」と反論。あくまでも、編集者としての役割を全うするのだと主張した。

だが、そうは言いつつも「僕が創作をちっとも発表しないのを心配してくれたのだろう」と、のちに振り返っている。内心は親友の忠告をしっかりと受け止めていたのだ。素直な態度をとれないのもまた、親友だからこそ、かもしれない。

菊池寛が初めて名称を考えたとされる「座談会」

その後も、菊池は編集者としての、芥川は作家としての才能をいかんなく発揮。『文藝春秋』の勢いは衰えることなく、さらに部数を伸ばしていく。複数の人で1つのテーマについて語る「座談会」も人気を博した。座談会は、今でこそ当たり前に雑誌上で行われているが、「座談会」という名称を初めて考えたのは、菊池だとされている。

しかし、状況が大きく変化したことで、体に思わぬ負担がかかっていたのかもしれない。創刊の翌年、1924(大正13)年に菊池は狭心症の発作に襲われている。すっかり弱気になった菊池は、芥川に宛てて遺書まで書いている。

長き交誼謝す アトヨロシク さよなら そう残念でもない 満足。
文芸コーザヨロシク
芥川様    菊池

菊池が35歳の若さながらも、死を覚悟していたことがわかる。菊池の遺書を芥川が目にしたかどうかはわかっていない。もし目にしていなくても、身近で友の病状の深刻さを知り、さぞ心配したことだろう。

だが、結局、菊池はそんな大騒ぎをしたわりには、1948(昭和23)年、59歳まで生きている。むしろ早くに亡くなったのは芥川のほうで、1927(昭和2)年、35歳の若さで自ら命を絶った。

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