老子が説く「人の下に立て」が成功への道になる訳 道徳論ではないリアリズムに基づいた処世術
(3)人と交際するときは思いやりに従うのがよい(与(まじわ)るは仁を善しとす)
『老子』が説くのは倫理道徳ではありません。ここで説かれているのも、人付き合いの際には周囲に思いやり(「仁」)を持てというよりは、その行動が思いやりからのものだと"思われている”状態こそが、物事を成すには好都合だという話なのです。
むしろ、『老子』は「思いやりなどに縛られるな」と言います。第五章にある次の一文を見てみましょう。
天地に思いやりはない、万物をわらの犬のように扱う。聖人に思いやりはない、人民をわらの犬として扱う(天地は仁ならず、万物を以って芻狗(すうく)と為す。聖人は仁ならず、百姓を以って芻狗と為す)(第五章)
これまでも見てきたように、『老子』謀略術において大事なのは、「道」の動きをいかに利用するか、「道」の法則に従っていかに周囲を人形(わらの犬)のように淡々と動かしていくか、なのです。そこにあるのは、決して「思いやり」などという人間の抱く小さな尺度ではないのです。
もう一度確認しましょう。
思いやりを持つことは何も物事を有利にはしないが、思いやりを持っていると周囲に「思われる」ことは有利に働く。これが『老子』の発想なのです。
ちなみに、ここで「思いやり」と訳した「仁」という言葉は儒教で最も重視される徳の名です。『老子』の著者の頭にはそれを念頭に「そんなものに理屈をつけて学ぶからダメなのだ」と否定する意識もあったのかもしれません。
(4)人を動かす言葉は「信」に基づくものがよい(言は信を善しとす)
戦国時代は、知識人が各国を飛び回って王侯貴族の前で弁舌を披露し自分を売り込み、各国政府の権力内部ではお互いを追い落とすための非難合戦、誹謗中傷合戦が横行し、敵国に弁論家を送り込んで謀略の罠に陥れることが盛んにされた時代です。すなわち、競争の中で各人が「話し方」を工夫し、言葉の力をぶつけ合うようにして激しく争う時代だったわけです。
しかし、『老子』は次のように説きます。
信頼に足る言葉は美しくなく、美しい言葉は信頼に足らない。「道」に従って善なる者は弁舌巧みでなく、弁舌巧みな者は善ではない。「道」を知る者は博識でなく、博識な者は知らないのだ(信言は美ならず、美言は信ならず。善なる者は弁ぜず、弁ずる者は善ならず。知る者は博からず、博き者は知らず)(第八十一章)
ここにあるのは、言葉の力の否定です。弁舌で他人を丸め込む、これ見よがしの知識と理屈を振りかざして人を動かす行為は、『老子』から見ればまったく「道」に適わぬ愚行なのです。
それはなぜか?理屈や知識といった言葉の力で他人を無理やり動かそうとすれば、必ず相手には「言いくるめられた」「言葉で押し切られた」というマイナス感情の芽が残る。仮にそのときはよくても、のちのちそうした芽がトラブルを生むことになりかねないのです。
だからこそ、『老子』は、言葉で人を動かす際に大切なのは、「話し方」などではなく話し手の信頼感(「信」)であると説く。これがここで言う「言は信を善しとす」の意味です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら