死後52年「三島由紀夫」が心酔した書「葉隠」の中身 「わたしのただ一冊の本」とまで呼んでいた

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『葉隠』には「武士道とは死ぬことである」とあります。「生か死かいずれか1つを選ぶとき、まず死をとることである」と説くのです。とはいえ『葉隠』も、人間の生きたいという願望をはなから否定したりはしません。「人間誰しも生を望む。生きる方に理屈をつける」と付言しています。しかし、山本常朝に言わせれば、生か死かの選択のもと、当てが外れて、生き長らえるならば「その侍は腰抜け」となってしまうのです。

「毎朝毎夕、心を正しては、死を思い死を決し、いつも死身になっているときは、武士道とわが身は一つになり、一生失敗を犯すことなく職務を遂行することができる」

「まことの剛の者というのは、何も言わずにそっと抜け出して死におもむく者である。相手をしとめる必要はない。黙って斬り殺される者が剛の者なのだ。このような者は、相手をしとめることができるものである」

これも、常朝の言葉ですが、死ぬ覚悟で物事に臨めば、大過なく仕事をすることができると説いているのです。三島の『葉隠入門』の前掲文は、常朝のこの言葉を敷衍したものでしょう。死を想い過ごすことにより、現実の生活・仕事もまた輝きを帯びたものになる。逆説ではありますが、それもまた事実の一面を衝いていると言えます。

無駄な犬死さえも、人間の死としての尊厳を持つ

さて、三島は『葉隠入門』のなかで、こうも書いています。

「われわれは、1つの思想や理想のために死ねるという錯覚にいつも陥りたがる。しかし『葉隠』が示しているのは、もっと容赦ない死であり、花も実もない無駄な犬死さえも、人間の死としての尊厳を持っているということを主張しているのである。もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも重んじないわけにいくであろうか。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである」

「相手をしとめる必要はない。黙って斬り殺される者が剛の者なのだ」と『葉隠』は書いていましたが、普通に考えれば、相手(敵兵)を仕留めることができず、黙って死んでいくのは「犬死」となってしまいます。しかし、山本常朝はこうした「犬死」も「恥にはならない」し「武士道において最も大切なことだ」とまで説くのです。

死に物狂いで相手と戦い、死んでいく気迫・覚悟こそ、常朝は重んじたのでしょう。普段、立派なことを言っていて、いざというときに逃げたりするよりは、潔く敵に立ち向かい、場合によっては死んでいく。『葉隠』は後者を重んじたのです。

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