「原発新増設」に動く政府へ被災者が怒る当然の訳 福島原発事故から約12年、帰還困難区域のリアル

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坂道を登っていくと、傾いてしまった納屋があった。地面のあちこちに穴がある。足跡のようなものと、掘ったような……。

「これはイノシシだね……。子どものイノシシかな」

駐車場の屋根が見えた。骨組みが折れ、変形している。奥にある平屋住宅の瓦屋根は上から押しつぶされたかのようにぐしゃっとへこみ、全体が崩れている。玄関は開け放し。目を凝らすと、棚や物で埋まっており、家に入るのは不可能に思えた。

「持ち出せるものなんて何もありません」

位牌もですかと問うと、鵜沼さんはうなずいた。

線量計の値が1マイクロを超える。

「(アラームが)鳴りっぱなしですものね。『あれを持っていこう』と思うときもあるんですけど、どうせ持っていったって、(汚染限度を)超えて没収となるでしょう? 持ち出す気にもなれません」

帰還困難区域で外に持ち出せるものは、対象物の汚染(1分間当たりの放射線の計数率)が1万3000cpmを下回るものに限られている。

牛舎に残る、逃げられなかった牛の骨

「牛舎を見せていただけますか」と頼むと、鵜沼さんが案内してくれた。来た道を戻っていく。右側に牛舎が見えた。事故前の鵜沼さんは放牧で約50頭の黒毛和牛を育てており、牛舎は餌場だった。今はがらんとしていて、コンクリートの床は乾いた牛糞で埋め尽くされている。その上に白いものが散らばっていた。

「骨です」

牛の骨
牛舎に散らばったままの骨(筆者撮影)

鵜沼さんが原発事故の避難指示で離れたあと、2011年8月に一時帰宅で戻ったときには、牛たちが重なって倒れていたという。牛舎から出られずに餓死した牛や、柵に頭が挟まったまま死んだとみられる牛たちがいた。

「3・11で大きく揺れた後も地震が続いていました。1頭がパニックで走ると、みんな走る。逃げようとして押されてしまい、将棋倒しになってしまったんだと思います。人間がいれば助け出せたんだろうけど……」

子牛たち10頭ほどもそのまま亡くなっていた。

「恐ろしくて自分で外に出られず、餓死したんだと思います……」

一度は東電が骨を片付けたが、あのときに見た牛たちの骨は、どれがどこの部分かわからないほどの微細な欠片となってしまった。散り散りになって落ちていたり、埋まったりしている。「まだまだ出てくるんです」と言いながら、鵜沼さんは靴で骨を掘り返す。「何とかならないかと思うんだけど、一人で拾うのは勇気がなくて……」。

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