池田大作氏が第3代会長に就任した翌年に結成された「公明政治連盟」(公明党の前身)で初代委員長に就いたのは戦時中からの最古参幹部だった原島宏治氏で、露骨にも学会の理事長職と兼務していた。当時、学会と党はどこからどう見ても一体。掲げた政治目標は日蓮正宗の「大御本尊」を安置する施設を国費で賄う「国立戒壇の建立」であり、その教えと政治を融合させる「王仏冥合」だった。
選挙活動が中心になった宗教団体の行く末
それが1969年暮れに起こった「言論出版妨害問題」で方針転換を余儀なくされる。世間から批判を浴びた学会は前述2つの政治目標を撤回、現役の学会幹部が議員を兼ねることもなくなった。以降、学会と党の一体性は水面下に潜った。
さらなる変質の契機は1990年に勃発した「宗門問題」だ。学会は日蓮正宗と決別。結果、大石寺登山など本来の信仰活動は激減した。代わりに選挙活動がますます比重を増す。「選挙には熱心だが政策に無関心」とも揶揄される現場の学会員は「池田先生を守るため!」と票集めに日夜邁進し、それ自体が信仰活動となった。信濃町からすれば選挙は組織引き締めにもってこいであり、議会での勢力確保は対外的な組織防衛戦略の要だ。
活動家は年々減るのに学会は各地に会館を建て続けている。これも狙いは「ゼネコン票」のためと見る向きがある。ことほどさように、学会の「選挙中心」思想は行き着くところにまで行き着いた感が強い。目的と手段が逆転してしまったのだ。そんな中、後期高齢者となった団塊世代の退場は間近に迫る。そのとき、組織が一気に崩れ落ちるおそれは、今や否定できない。
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