53歳で異業種へ…元NHK看板アナが体験した試練 外される世代と自覚し、新人として飛び込んだ
「外される」世代になってきた
2012年念願叶って東京へ異動。福祉の学校の後半1年は東京から学んだ。
しかし、東京で内多さんを待っていた番組は、「きょうの料理」だった。
NHKの看板番組のひとつだが、今も昔も料理をしないという内多さんが、エプロンをつけて台所のセットの前に立つことになったわけだ。「なぜ自分なのか?」と心の中でガッカリしながら、慣れない料理と格闘する日々だったという。
内多さんの本来の希望は、障がい福祉のテーマをはじめ、自ら企画立案をし、取材をすることだ。しかし、「きょうの料理」では残念ながらその希望は断たれてしまった。
それでも、内多さんが仕事へのモチベーションを維持できたのは「クローズアップ現代」の代行キャスターという役割があったためだ。代行のため、年数回、しかもいつ呼ばれるかわからない不安定な立場ではあった。それでも、ここでは自分がやりたいことができる可能性がある。首の皮一枚つながっているような気持ちでありつつ、大きな支えにもなっていた。
しかし内多さんが50歳になっていた頃。「クローズアップ現代」の代行キャスターから外されてしまう。内多さんから若いキャスターに変わってしまったのだ。そこで、内多さんが新しく用意された仕事はラジオのディスクジョッキーだった。一見自由に好きなことが話せるように感じるかもしれないが、概ね構成は決まっており、内多さんがやりたいことを自由に提案する余地はほとんどなかった。
それまで、仕事に生きがいを見出し、やりたいことが実現できる喜びを感じながら生きてきた。しかし、いよいよそうではなくなった。「これはダメだ、と観念した」という。職業人生の中で「外される」という年代にさしかかってきたと実感した。
その後は、「仕事」と「生きがい」を分けた。仕事以外のボランティアとして、フードバンク(フードロスを引き取り、必要とする人々へ届ける活動)の活動をしたり、自分の居場所を求めて転職活動をしたこともあった。しかし、あっけなく不採用。「NHKのアナウンサーでござい!」だけでは通用しなかった。そこに、仙台転勤の辞令が出た。51歳になっていた。
NHKでは60歳の定年前になると、故郷人事といって、住まいのある場所に戻してくれるパターンがあった。つまり、仙台で3~4年仕事をしたのち、東京勤務に戻って、おとなしく定年を迎える。そんな人生が見えてしまったという。
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