慶応の教師から実業界へ大抜擢。
1875年、三菱が本格的に近代的なビジネスに乗り出した頃、慶応義塾からある一人の青年が採用された。
その人物の名は、荘田平五郎。岩崎彌太郎、彌之助、久彌の3代にわたって三菱の経営の中枢を歩んだ荘田は、三菱合資会社理事長や日本郵船、東京海上保険のトップを歴任し、「三菱の大番頭」といわれた人物だ。
1847年、荘田は現在の大分県臼杵市に生まれた。藩校で学んだ後、慶応に入塾。福澤諭吉から目をかけられるほどの俊才だったという。卒業後は慶応で教師を務めたのち、諭吉からの推薦や、慶応の後輩で彌太郎のいとこに当たる豊川良平からの紹介もあり、三菱に入社した。
経理に複式簿記を導入
荘田が最初に行った仕事は、「三菱汽船会社規則」の制定だった。「会社に関する一切の事(中略)すべて社長の特裁を仰ぐべし」として、社長のワンマン経営を明確に打ち出した。
続いて、経理規定の「郵便汽船三菱会社簿記法」を作り、日本企業の中で複式簿記を採用したはしりとなった。さらに「傭使人扶助法(ようしにんふじょほう)」「職工救護法」など、従業員を考慮した労働施策も策定。荘田は、三菱に近代的な経営システムをいくつも導入し、会社としての体裁を整えた最初の人物だった。
この記事は有料会員限定です。
東洋経済オンライン有料会員にご登録いただくと、有料会員限定記事を含むすべての記事と、『週刊東洋経済』電子版をお読みいただけます。
- 有料会員限定記事を含むすべての記事が読める
- 『週刊東洋経済』電子版の最新号とバックナンバーが読み放題
- 有料会員限定メールマガジンをお届け
- 各種イベント・セミナーご優待
無料会員登録はこちら
ログインはこちら