生誕120年、「松下幸之助」とは何だったのか 今でも色あせない「ひとことの力」

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経営の神様であった松下幸之助さんのすごさは、人々があっと驚くことを平気でできたことです。その一つが「山下跳び」と呼ばれる大抜擢人事です。1977年、山下俊彦さんが社長に就任します。旧制工業学校卒の学歴しかない末席の役員がいきなり社長になったのですから、社内だけでなく世間もびっくりしました。

抜擢したのは当然、幸之助さんということになっていますし、山下さんもそう言っています。しかしこれには知られざる異聞があります。それは山下さんを次の経営者に最初に見込んだのは、このとき社長から会長に棚上げされた娘婿の松下正治(現取締役相談役名誉会長)さんだというのです。8年ほど前、正治さんご本人から直接聞きました。

山下君を選んだのは、幸之助ではない

みずの・ひろゆき 1929年生まれ。52年京大理学部物理学科卒、松下電器産業に入社。一貫して技術・開発畑を歩み、90~94年副社長。米スタンフォード大顧問教授、高知工科大副学長などを歴任。米国のベンチャー事情や産学連携にも詳しい。

「山下君を選んだのはこの私で、幸之助ではない」と明確におっしゃいました。正治さんは山下さんの因習にこだわらない合理的なところを買っていた。正治さんも実は論理的・合理的な人です。当時の経営上層部は番頭タイプばかりで、正治さんとウマが合わなかったことも関係しているのかもしれません。

今に至るまで正治さんはこの件について詳しく語っていないので、真相はわからずじまいです。社内のさまざまな権力事情が絡み、それも一面の真実であった可能性もあると思います。正治さんにすれば「幸之助伝説」に異議を唱える必要はないと考えたのでしょうか。

ともあれ、社長になった山下さんは古い体質の残る松下電器を大胆に変えていきました。その象徴が戦前から仕えていた松下の番頭ともいえる副社長、専務クラスを次々とクビにしたことです。それが幸之助さんとの衝突を生むことになります。

ある年の経営方針発表会で、幸之助さんが山下さんのやり方を公然と批判したことがありました。聞いていた幹部・一般社員までも言葉を失うほど厳しい叱責でした。

しかし山下さんは淡々としているふうに見えました。幸之助さんができなかった経営の近代化を、代わりにやっているんだという自負があったのかもしれません。幸之助さんは最終的には山下さんのやることを認め、松下は幸之助の会社から近代的な大企業へと変貌していきました。

山下さんの力量を認め存分に腕を振るわせた幸之助さん、それに応えた山下さん。時にすさまじい軋轢を生みながらも、松下を強くすることでは二人は一致していました。共に卓越したリーダーとして、私に鮮烈な記憶を残しています。

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