校則の見直しの動きが広がる一方、旧態依然とした学校も
生徒の下着の色まで指定する、髪の毛を黒く染めさせる、ツーブロック禁止など、行き過ぎた校則や指導が社会問題となっている。
この3月に公表された東京都教育委員会の報告によると、来年度から都立高校では以下の校則が全廃される見通しだという。カッコ内は、昨年4月の時点で採用していた高校の課程数だ。
・髪を一律に黒く染める(7課程)
・ツーブロックの禁止(24課程)
・別室指導ではなく、自宅謹慎を行う(22課程)
・下着の色指定(13課程)
・「高校生らしい」など曖昧な表現を用いた指導(95課程)
なお、いわゆる「地毛証明」の任意提出については55課程のうち35課程では廃止を決めたが、20課程では、生徒らの意向で残すことになったという。今後も「地毛証明まで必要なのか」という議論は必要だと思うが、上記の5項目がなくなる見込みであるのは、大きな前進だと思う。同時に、やっとのことかという思いも残る。校則で苦しんできた生徒もいて、救われなかった子どもたちもいるからだ。遅きに失したともいえよう。ほかの地域でも、佐賀県や熊本市などで、校則の見直しが広がっている。
一方、鹿児島県のある中学校ではポニーテールが禁止されており、その理由が「男子がうなじに興奮するから」というものだったという。その後、話し合いを重ねたものの、この中学校では校則の見直しは進まなかったようだ。
先生からは「ここは鹿児島だから」と言われたというが、学校側の説明に納得する人はほとんどいないだろうし、生徒にも禍根を残すうえに教育上もマイナスの影響が大きい。全国的な状況は定かではないが、まだまだ必要性が乏しく、むしろ害となっている校則が残っている学校も少なくない。
「校則を守れ」という法令はない
実は「校則を守らなければならない」ということは、どの法令にも書かれていない。「児童生徒の服装、髪形などは校則で定めなければならない」と書かれている法令もないし、学習指導要領にも記述はない。つまり、学校生活の中ではいかにも強そうに見える校則だが、根拠となる法令はない。
ただし、学校は学習する場であるし、多くの子どもたちが共同で長い時間を過ごす場でもあるので、一定のルールが必要な場合はある。そのため、これまでの裁判例では、学校が教育目的を達成するために必要かつ合理的範囲内において校則を制定することは認められてきた。
ただし、これまでの裁判例の多くが学校(校長)の裁量を広く認めすぎているという批判はあるし、裁判所は「社会通念上合理的と認められる範囲」で校則を定めてもよいとよく言うのだが、非常に曖昧な内容にとどまっている。
一部の報道や書籍などでは「ブラック校則」とひとくくりにされがちなところもあるが、必要性の高い校則、あるいは合理性のある校則もあれば、そうではない校則もあるのではないか。両者をどう区別したらよいのだろうか。
ここでは、私なりに校則を見直すうえでの考え方を整理し、必要な校則と必要のない校則を仕分ける(見分ける)視点について提案したい。
自由を制限するのは最小限であるべき
まず、大前提となる考え方を3点共有したい。
第1に、自由を制限するのは必要最小限度であるべき、という考え方だ。人類のこれまでの歴史を振り返ると、時の権力者や社会に、個人あるいは集団の思想や活動の自由が大きく制限され、これが数々の不幸を生んだ。こうした反省のもとに、今の日本国憲法をはじめとする法はつくられている。
そして、いま現在もロシアとウクライナで行われていることを見るにつけ、国家権力による自由、生命の侵害は現実に起こりうること、その結果多くの人々が苦しむことを肌身で実感しているのは、私だけではあるまい。
つまり、公立学校のような公権力が生徒の自由を制限するというのは、怖い側面があることなのだ。「大げさな。戦争の話とはまったく次元が異なり、同列には論じられない」という反論、疑問もあろう。確かに被害の規模、程度はまったく異なるが、自由を制限することには慎重の上にも慎重を重ねなければならない、ということは共通である。
では、学校の役割とは何だろうか。
この答えは幾通りもあってよいが、1つ外せないのは、自分と他者、お互いの自由を尊重していくということを教え、学ぶことにあるのではないか。教育哲学者の苫野一徳氏は「自由の相互承認」の感度を育む場が教育であると述べている。
その教育現場の一部で、ともすれば校則を守ること、あるいは守らせることが目的化し、児童生徒の自由を安易に制限しようとしていることは、大きな問題である。きつい言い方かもしれないが、教育機関、教育者として、合理的な説明ができない校則を押し付けることは、自らの存在意義を否定していることにつながる、とさえいえると思う。
第2に考えるべきは、校則の影響についてである。合理的な理由がきちんと説明でき、児童生徒(また保護者)が納得できる校則であればよいが、そうではないルールを押し付けることは、子どもたちの教育上もマイナスである。
「ルールなんだから、守れ」という乱暴な「指導」をしている教師も一部にはいるが(本来こういうことを「指導」とは呼べないと考えているが)、これでは「教師の言うことには黙って従え」ということを刷り込んでいる「隠れたカリキュラム」(公式なカリキュラムではないが、知らず知らずのうちに教えていること)になっている。
学校の教育目標や日頃の指導の中でいくら「自律」や「自ら考える力」が必要だなどと言っていても、矛盾したものとなる。
校則のせいで、不登校が増加
また、必要性の乏しい校則と「指導」によって、学校に行くのが嫌になる児童生徒や、教師との関係性を壊してしまうケースもある。これも甚大なマイナス影響である。
文部科学省が2020年に不登校経験者にアンケートを行った調査(「不登校児童生徒の実態把握に関する調査報告書」)によると、「学校に最初に行きづらいと感じ始めたきっかけ」として、「学校のきまりなどの問題(学校の校則がきびしかった、制服を着たくなかったなど)」と回答した小学生6年生は2.7%、中学2年生は7.8%であった。
不登校は複合的な理由が背景になっていることも多いので、校則だけの問題ではない。だが、非常にラフな推計をすると、上記の割合が全国の小中学校の不登校児童生徒(約19万6000人)にいえると仮定するならば、およそ1万2000人の小中学生が校則など、学校の決まりの問題が原因の1つで、不登校になっている(これは欠席30日以上を不登校と定義した場合の話で、それ未満の児童生徒も含めるともっと多くなる)。
高校生についての文科省調査はないが、訴訟にまで発展している事例もあるし、高校のほうが保護者の一部の意見や世間体を気にしてか、より厳しく「指導」している例もある。校則のせいで苦しんでいる生徒は多いはずだ。
第3に考えるべきは、法との関係である。基本的には法に触れることは法で解決できる話だから(例:人の物を盗まない、他人を傷つけてはいけない)、校則の出る幕がどこに、どこまであるのか、考える必要がある。
以上3点から、校則は定めても必要最小限の範囲であるべき、という考え方を採ったほうがよいと私は考える。
必要な校則と、必要のない校則とは
では、必要最小限とはどのようなものか。社会通念などという、わかったような、わからないような概念を持ち出さなくてもよい。ここでは2つの視点を提案したい。
1つは、学校の施設管理上必要性の高い事柄である。例えば、自転車やバイクでの通学は認めない学校がある。学校のスペース上どうしても駐輪場が確保できない場合や、多くの生徒が集まる中、乗り入れを認めては事故を起こしやすいといった理由がある。こういうケースを「ブラック校則」などと呼ぶ人はほとんどいないだろうが、施設管理上必要性が高いなら、禁止はやむをえない。
もう1つは、ほかの児童生徒の権利侵害になりえる行為などを禁止することである。例えば、授業中に騒音を出したり、香水の匂いがきつすぎたりする場合は、本人はよくても、ほかの児童生徒の学習権の侵害になる可能性がある。こうしたケースでは、校則上の問題とせずに、生徒指導の中で個々に対処したらよいことかもしれないが、一定の禁止を学校が定めることは理解できる。
逆に言うと、例えば、髪形や髪の毛の色がどうであれ、施設管理上の必要性や権利侵害の防止・解決にはほとんど関係ないので、校則として規制する必要性は低いし、安易に生徒指導の事案とするべきではない、と私は考える。もっと平易な言葉で表現するなら「人の迷惑になっていない」ものは、自由を認めてよいのではないか。
こう書くと、「妹尾は学校の現実をわかっていない。髪形などを自由にすると、地域などからクレームがくるし、就職活動をするときに不利になる。社会が変わらないといけない」といった反論も現場の先生たちからよく寄せられる。
なるほど、確かに社会としてももっと自由を尊重するようになってほしい、と私も強く思う。だが、だからといって、合理的な理由が疑わしい校則を続ける理由になるだろうか。地域などからのクレームには、学校はきちんと説明していくしかないし、クレームがくるからといって、生徒の意思や自由はどうでもよいという理屈にはならない。就職のとき有利になるかどうかは、相手先にもよるし、生徒本人(ならびに保護者)が髪形などをどうするかは決めればよいことで、一律に制限するものではない。
ぜひ各地の学校においては、本当に必要な校則は何なのか、何のための校則なのかといった根本から見つめ直してほしい。
(注記のない写真:I_am_shota.h / PIXTA)