「廃止」ではなく「教員免許更新制の発展的解消」の理由
中教審が、教員免許更新制をやめること(「発展的解消」)を正式に決定した。11月15日に中教審が審議をまとめ文部科学大臣に報告、文部科学省は来年の通常国会で法改正を目指す構えだ。
免許更新制の「廃止」とは述べずに「発展的解消」とわかりにくい言葉を使っているのは、更新制に代えて、新たな学び(研修など)の仕組みをつくることを考えているからだ。
なぜ、純粋な廃止ではないのか。保護者や世間の目としても、あるいは免許更新制をつくったときから思い入れのある議員などの思いとしても、教員の不祥事やいじめ問題への不手際、隠蔽、学級崩壊などの報道があるたびに「先生たち、大丈夫なのか」という疑念は高まる。そこへの対応策として、新たな学びが考案されている側面もあろう。もちろん、目まぐるしく社会が変化する中で、10年に一度の更新講習では間に合わず、教師が学び続けていかなくてはいけないということも大きいが。
「令和の日本型学校教育」を担う新たな教師の学びとは?
では、文科省が考えている新たな教師の学びとは、どのようなものか。
現行では、独立行政法人教職員支援機構や各地の教育委員会、大学、民間などさまざまな団体が教員向け研修を実施しているが、それら研修のコンテンツをワンストップ的に集約・提供するプラットフォームを構築すること、また、教師の研修受講履歴を記録・管理すること(それを人材配置やキャリア支援などにも活用すること)などが中教審から提案されている。
具体的な制度設計はこれからなので、現時点では何とも言えない部分もあるが、期待できる部分もあるし、心配な部分もある。たくさんのエライ人たちが検討しているものに口を挟むようで恐縮だが、今後よりよいものになるために、以下では、中教審の案では甘いと思うところを問題提起しておきたい。ここでは2つの視点で整理する。
中教審の「個別最適な教師の学び」が、よくわからない
まず1点目は、「個別最適な教師の学び」が何なのか、よくわからない。
これまでの中教審の文書などでおなじみであるが、抽象度の高い言葉、それも美辞麗句でけむに巻いているように見えるものが今回も少なくない。その最たるものの1つが「個別最適な教師の学び」だ。以下、今回の中教審のまとめ案から引用しておこう。
・およそ教師として共通に求められる内容を一律に修得させるというものではなく、より高度な水準のものも含め、一人一人の教師の個性に即した、個別最適な学びであることが必然的に求められる
こうした記述を読んで、正面切って反対する人はそういないと思うが、どこまで中身があるものなのかはわからない。
例えば、10年目になったのだから「この研修は受けなさい」などと受け身で画一的な研修ではなく、一人ひとりの教師のニーズなどに応じて主体的に選択していくということだろうか。あるいは、ワンストップ化された研修ポータルから、その教師にフィットしそうなレコメンデーションが来るようなイメージなのだろうか。Amazonであなたのおすすめの商品が表示され、ついクリックしてしまうみたいに。
その程度なら「個別最適な学び」といった大仰な表現はしなくていい気はするのだが。研修コンテンツの集約と多様化、お勧め機能の追加といった表現でいいかもしれない。さらに、誰がどう「最適」と評価、判断するのだろうか。個々の教師本人だろうか。研修履歴等を管理する教育委員会か。現場の校長・教頭か。それともAIだろうか。2点目の疑問点とも重なるが、そもそも、教師の学びで何が最適かなど、そう簡単にわかるものなのか。
例えば、英語が堪能で英検、TOEFLなどの成績もよい小学校教諭がいたとしよう。では、この教師には外国語教育の研修等の必要性は低い、と言い切れるだろうか。
私は教育方法論や英語教育の専門性はないので、素人発想かもしれないが、私なら、研修の必要性は、その人の授業を見てみないと何とも言えない、と答える。教えるのがうまいとは限らないし、児童理解や国際理解など、英語技能以外の資質やスキルも重要だからだ。
仮にこの程度のことも含めて、あまり中身が詰められていないのなら、「個別最適な教師の学び」などと呼ぶのは誇大広告である。
中教審の「学びの成果についての理解」が浅い
2点目は、新たな学びの成果とは何なのかについても、あいまいである。
今回の案の中核となっているのは、研修履歴を管理、活用していくことであろう。中教審のまとめによると、「学びの成果が可視化(何が身に付いたのか自ら説明できる状態)されることにより、教師は自らの『現在の姿』を適時適切に更新することが可能となる」といった言及がある。
学びの成果とは「何が身に付いたのか自ら説明できる状態」なのだろうか。
例えば、私は学校の組織マネジメントや働き方改革について研修講師をたびたび務めているが、「研修を受けて、働き方改革の必要性がよくわかりました」といったアンケート結果はよく頂戴する。だが、これは学びの成果ではない。研修の主催者も私も狙っているのは、研修内容で参考になったところがあれば、それを活用して、学校などで行動、変化が起きることだ。
つまり、文科省などの案は、研修を受講したことと、その内容を習得、活用したかは別であるはずなのに、受講したことだけを重視しているように見える。専門用語を含むが、これは研修の「転移」と呼ばれる問題で、研修を受けたかどうかよりも、仕事、成果につながっているかどうかが問われなければならない。
もちろん、業務に直結することだけが教師の学びではない。例えば、歴史や哲学を学ぶことは、自由の意味・意義を考えるうえで重要だろう。つまり、研修等の目的、狙いによって成果は変わるが、少なくとも、「研修を受けましたよ」が成果ではない。
以上述べた2点について、もう少し突っ込んだ議論と制度設計をしておかないと、教員免許更新制に代わる新たな仕組みができたとき、学校現場はどうなるか。校長などから「あなたは毎年ちゃんと研修を受講していますね。この調子で頑張ってください」といった声かけがあるくらいの運用になるのではないだろうか。現に、研修受講履歴を記録・管理している都道府県教育委員会は、今でも76.5%(中教審「教員研修履歴の管理等に関する調査結果」の幼・小・中・義務において)ある。それで豊かな学びになっているだろうか。十分になっていないとすれば、それはポータルなどがないせいではなく、もっと違うところに問題があるのではないか。
「主体的で対話的で深い学び」とは新しい学習指導要領で児童生徒に向けて言われていることだが、教師と学校組織が「主体的で対話的で深い学び」を進めていくために、どんなことが必要か、美辞麗句を並べるだけになってはいけない。
(注記のない写真:tadamichi / PIXTA)