閉塞感漂う社会の中、募る将来への不安

平野 啓一郎
1975年生まれ。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。以降、一作ごとに変化する多彩なスタイルで数々の作品を発表。2019年に映画化された『マチネの終わりに』は累計58万部超のベストセラー。2020年7月末まで新聞連載していた長編小説『本心』は2021年に単行本発売予定。現在、『三島由紀夫論(仮題)』を執筆中。

「日本という国自体が、自分探しの旅を始めたような時期だった」。平野啓一郎氏は学生時代をこう振り返る。

「私が大学生だった1990年代後半は、阪神・淡路大震災やオウム真理教のテロなど『世も末』みたいな出来事が立て続けに起こっていました。バブル経済が崩壊して就職難になっていましたし、インターネットもまだ普及していなかったので、閉塞感はすごくありました。冷戦も終わり、世界情勢も変わった。『何のために生きるのか。どうやって生きていけばいいのか』ということを、かなり深刻に考えていました」

しかし、「どう生きるか」という根源的な問いへの対処法は知らなかった。

「高校までは、そういう問いを突きつけられ、真剣に考える、という授業はありませんでした。倫理の授業もありましたけど、面白いなと思う程度で、自分の問題とはなかなか接続しませんでした」

高校から大学に進学するまではそれでよくても、大学生活が後半に突入すれば、将来をいや応なしに考えざるをえなくなる。大学3年生となった平野青年も例外ではなく、焦りは深まった。そんなときに、「人生の方向が変わる」経験となる講義と出合う。それが、小野紀明氏(現・京都大学名誉教授)の「西洋政治思想史」だった。

「大学3年になると、専門科目を履修しないといけません。でも、何となく選んだ法学部なので法律には全然興味を持てず、目についたのが小野紀明先生の『西洋政治思想史』でした。文学は好きだったので思想史に魅力を感じましたし、当時大ブームだった現代思想ももう少し理解できるのでは、と期待しました」

そんな軽い気持ちで履修を決めた平野氏。初回の講義は、頬づえをつきながら教室のいちばん後ろの席で受けていた。ところが、講義が終わる頃には「一種のショック状態で、その場から動けなくなっていた」という。

「ヨーロッパの思想や哲学というのはかなり遠い世界のはずなのですが、自分自身の出来事としてすごく響いてきました。例えば、古代ギリシャの話が印象に残っています。アテネは戦争や疫病に見舞われ、人々は精神的な危機を迎える。賢人とされていたソクラテスが処刑されてしまい、その弟子のプラトンは哲学的な思索を始める。西洋の哲学はそういった危機意識から始まっています。思想家たちが当時の社会をどう捉え、自分の思想を練り上げていったか、小野先生が非常に鮮やかに、迫力をもって語られていて、衝撃を受けました。90年代当時の日本の閉塞感やニヒリズムに通ずるところがある、とも感じました」

ヨーロッパの思想家たちが何を残したか、知識として伝えるのではなく、当時の状況を踏まえたうえで「どう生きたか」を示す講義。それは、社会に対してどのように立ち向かい、解決のための思索を積み重ねていくプロセスを、学生に共有させる営みでもあった。だからこそ、社会の閉塞感を感じ取って「どう生きるか」を模索していた平野氏に共鳴したのだろう。

恩師に学んだ「矛盾と複雑さを受け入れる」姿勢

小野教授によって示される思想家たちの生き方は、平野氏の物事の見方にも大きな影響を与えた。

「粗雑に、断定的かつ一面的に何かを見てはいけないということを小野先生に学びました。1人の思想家でも時期によって思想の変遷があり、それが矛盾している場合もある。1人の生き方の中でも多様な可能性と変遷があります。複雑な物事は、たとえ矛盾していたとしても、複雑なまま見るべきだ、と教えられたのはとても貴重でした」

変わりゆく環境の中で、誰もがいろいろな事情を抱えて生きている。時には矛盾した考えを持つ場合もある。平野氏は、自らの実体験と小野教授の教えを照らし合わせてそのことを理解し、「多様性と自由」を拡大していった。

「私は大学に入学するまで九州の田舎にいて、狭い世界しか知りませんでしたが、バンドを組んだり、大学近くのバーでバーテンダーのアルバイトをしたりして、いろいろな世界を知ることができました。そうした生活を経験しながら、一方では小野先生の講義やゼミで、自分が接している多様な現実を包摂できる思想の枠組みを学べたことで、自分が生きている現実を理解できたと思っています」

もう1つ、小野教授にまつわる思い出として平野氏が「自分を変えた」と語るのは、若者ならではの恥ずかしい体験だった。小野教授のゼミに入ってすぐ、意見を求められた平野氏は、当時読んでいた思想家の書物の内容をそのまま述べてしまう。ズルをしようという意図はなく、共感したことを口にしただけだったが、小野先生にどの書物からの引用なのかを即座に見破られる。

「得意げに話していた自分が穴に入りたいほど恥ずかしく、思想を語るにはこれではいけないと思いました。当時は自分の言葉で語れるような教養もなかったのですが、洗練されていなくてもいいから、自分で実感と共に練り上げた言葉を語るべきだとつくづく感じました。同時に、小野先生は学問の世界でも『勉強しすぎ』といわれるくらいの碩学(せきがく)でしたから、安易に不勉強のまま『これが僕だから』でもダメで、もっともっと勉強しないといけないと深く反省しました」

支えとなったデビュー前の「恩師」の一言

大学3年生になって「恩師」と出会えた平野氏。2人の小学生の父となった今、教育に対してどのような思いを持っているのだろうか。そう聞いたところ、自身が提唱する「分人」の概念を通じて、初等教育の現場でもそうした多様性を認める教育をしてほしいと語ってくれた。

「『分人』とは、状況や場所によって生じる複数の人格のことです。1クラス30人全員に対して一本調子で話されても、伝わりにくいですよね。『この子はこういう話し方じゃないと通じない』というのがあると思いますし、そうやって接すれば子どもの側も先生を信頼できるようになるでしょう」

もちろん、実践している教員もいるだろう。しかし、制度や教育現場の同調圧力などが阻害している実態もあるのではないかと平野氏は指摘する。

「初等教育は、多様な人間が集まってコミュニティーを形成するために、共通の言語や計算方法を身に付けさせるわけですが、それが『同一性』の確認手段にすり替わってしまって、その感覚が中学、高校とずっと続いている気がします。例えば、ツーブロックの髪型を禁止する都立高校の校則が話題となりましたが、髪型を規制することの教育的な意味はどこにあるのでしょうか」

そうした同一性の強化と多様性への理解度の低さは、最近問題となっているインターネット上の誹謗中傷や、対話をすることではなく「言い負かすこと」に重きを置く風潮にもつながっているのではないか、と平野氏は指摘する。

裏を返せば、「どう生きるか」を安心して考えられる、多様性が保証された環境を整えることが、一人ひとりの主体性や能力を伸ばすことにつながるともいえる。

「今は、これだと将来安泰という道がまったく見えなくなってしまっているので、教育はすごく大変だと思います。その中で、生徒がいろいろなものにオープンに受け入れて、挑戦して、失敗しても柔軟に受け止めてまた挑戦して、というふうにバランスをとってうまく生きることができるような教育だといいなと思います」

「小説家」というある種“特殊”な道に進もうと打ち明けたとき、小野教授は軽やかにそれ受け入れたという。芥川賞受賞作の『日蝕』が、文芸誌に一挙掲載という異例のデビューを飾ったが、平野氏はゲラ刷りの段階で小野教授に読んでもらった。

「小説を書いていることは全然伝えていなかったので驚かれました。一方で、私が小説の道を歩もうとしていることに対しては『卒業してサラリーマンになるわけじゃないと思っていた』というようなことをおっしゃって、理解を示してくださったのはうれしかったです。その後も作品を送れば必ず読んでくださって、感想をいただいたり励ましていただいたりして、とても心強かったです」

正解のない大海原で迷っていた平野氏にとって、小野教授がかけてくれた言葉が、不安を打ち消して創作に邁進する追い風となっていた。「どう生きるか」。その深い教えは作家としてだけでなく、今を生きる一個人としての羅針盤でもあった。

「私にとっての『恩師』は、人生の方向が、その出会いによって変わって、よい形で大きな影響を及ぼした存在です。ほかにもお世話になった先生はたくさんいますが、私にとっては小野先生がやはり恩師だなと思います」