今年も残りわずか。毎年12月になると、学校の先生たちと話をしていて、「さっさと、やめるか、減らしたらよいのに」と思うことがある。通知表のことだ。
通知表は通信簿、あゆみなど、さまざまな名称があるが、法的な規定、根拠はないので、廃止することも可能だ。中学校や高校では、高校・大学入試の調査書(内申書)の関係もあって、なくすことは難しいが、小学校はかなり自由がきく(私は内申書の必要性も問い直したいと思っているが、別の機会に議論したい)。
実際、通知表が長年ない小学校もあるし、最近なくした学校もいくつかある。もしくは、廃止はしないが、年1回に減らしたり、所見欄(児童の活動の様子やよさをコメントする欄)を簡素化したりする例も、全国的に少しずつ広がっている。今回は、小学校の通知表について考えたい。
タイパが悪い?通知表作成に十数時間
通知表の見直しが議論になっているのは、教員にとって、そうとう負担が重いからだ。ラフな推計だとは思うが、所見の作成で、1学期あたり10時間くらいはかかっている(1人の教員当たり)、と文部科学省の事例集では見積もっている。道徳や総合的な学習の時間、またトータルの総合所見の欄はコメントを書くのが一般的で、大型書店では例文集がたくさん売られている。
おそらく調査がないので、私が小学校教員らに聞いた経験値にすぎない話になるが(学校や教員によってもう少し違いはあるだろうが)、通知表の作成には、評価のもととなる情報の収集や整理を除いて、「1人の児童当たり30分では済まない」と言う人が多い。
少なく見積もって仮に30分だとしても、30人児童のクラスでは15時間だ。3学期制で毎回コメントを書くとなると、×3で45時間要していることになる。
通知表を作成する時期になると(3学期制のところなら7月、12月、3月など)、土日出勤している先生は多い。たかがと述べると、失礼な言い方になるかもしれないが、たかが通知表のために土日を潰すほどの残業をして、くたびれるのは、もったいないと思う。それに、教員本人もなるべくなら時間をかけたくないと思っている場合が多い。
加えて、チェックの時間もバカにならない。学級担任が書いたあと、誤字脱字や不適切な表現がないか、学年主任がチェックする。学校によっては、そのあと、教務主任や教頭、最後に校長がチェックして、3段階も4段階もというところもある。
保護者に出すものなので、学校は非常に気を遣っているのだ。たまに負担を考えない校長が修正を指示したりすれば、やり直しである(チェックも再度)。
ところが、保護者にとっては、どうだろうか? わが子の通知表を30分以上「熟読」している、あるいは三度も、四度も読み返している人はどれくらいいるだろうか?
私が保護者向けの講演のときに聞いた感触からすれば、30分はもとより10分以上読んでいる保護者もほとんどいない。私自身も、これまで4人の子どもが小学生だったが、ものの数分だと思う。「今回は〇が増えてよかったね」とか「クラスでこんなこと頑張った、って書いてくれているよ」と子どもと話すネタにはなるが、その程度のもの。それがおそらく多くの保護者にとっての通知表ではないだろうか。
かけた手間、時間の割には、保護者と児童本人にとって、いかほどの効果があるのだろうか。タイパ(タイムパフォーマンス)、時間対効果が悪いのではないか。
「何のため?」+「だったら、別の方法もあるよね」
そもそも、何のために通知表をつくって、渡しているのだろうか。
私が担当する教職員研修や校長研修、あるいは保護者向け講演では、この問いについて話し合ってもらうことがある。いろいろな考え方はあってよいと思うが、「子どもの成長やがんばりを家庭に伝えるため」「学習で課題のあるところを保護者に知ってもらうため」といった声が多い。
まとめると、通知表の主たる目的、狙いは、子どもたちのよさや課題を保護者と本人にフィードバックすることだろう。ならば、次の質問は2つだ。
〇その目的に照らすと、通知表以外の方法もありますよね?
「本当にその狙いどおりに運用できていますか?」と問いかけたのは、正直、通知表が形骸化している学校、学級が多いと感じるからだ。前述のとおり、おそらく多くの保護者にとっては、通知表をもらっても「まあよかったね」「次頑張ろうね」「ふーん」といった程度のもの。中学受験に関係して、かなり熱心に気にする保護者もいるだろうが。
問題は学校側の姿勢にもある。その子の課題や改善が必要なところを書いて、保護者の心象を悪くして関係がこじれてはいけない、クレームものになっては面倒だ、と考えるので、課題は書かなかったり、無難な表現にとどめたりする例が多い、と聞く。
これでは、通知表は、もはや作成すること、渡すことが目的化しているような部分があって、フィードバックとしての意味は、薄くなっているのではないか。
次に「通知表以外の方法もありますよね?」と質問したのは、ほとんどの小学校では通知表に加えて、保護者との面談、懇談の機会を設けているからだ。通知表にそうしゃかりきにならなくても、面談のときにいろいろと話ができるという場合も多い。
保護者にもよるかもしれないが、顔を合わせてのほうが、課題や気になっていることについても、保護者に伝えやすいし、相談にのったりもしやすい。また、児童の頑張りや成長を伝えるのは、なにも通知表のような学期末だけではない。日ごろの授業の中でも、ほとんどの先生はよく児童を見ているし、褒めたり、指導したりしている。
ある小学校は、児童の作文やレポート、絵などの作品をファイルにとじている(「ポートフォリオ」と呼ばれるが、そう難解なものではない)。たまに先生からもコメントが付いている。これで1年間の成長はよくわかるし、学年をまたげば、6年間の成長も見えてくる。児童を励ますフィードバックという意味では、私は通知表でなく、こうした取り組みで十分かと思う。
指導要録もいるのか?
以上は通知表についてなのだが、これと似たものに「指導要録」というものがある。多くの保護者にとってはなじみのないものかもしれないが、指導要録は学校教育法施行規則に定められた公簿だ。
文科省は参考様式を示している(参考なので、これにしなさいというものではないと思うが)。下記をご覧いただければ、通知表にかなりそっくりなことがわかるだろう。
私は、数年前に文科省の審議会で、「指導要録も必要なのか」と疑問を呈したことがある。もちろん、だれだれさんがその小学校に在籍していたという学籍情報は必要だろう。だが、通知表に似た指導の記録という欄は、必要なのだろうか。
働き方改革の流れもあって、文科省は2019年に教育委員会等に通知を出しており、指導要録についても負担軽減を図るように呼びかけている。
出所:文科省「小学校,中学校,高等学校及び特別支援学校等における児童生徒の学習評価及び指導要録の改善等について(通知)」(平成31年3月29日)
箇条書き程度でもよいよ、とはなったのだが、指導の記録の廃止にまでは至っていない。指導要録が残っているので、通知表をなくすまではできない、という学校は多い。通知表をなくしたところで、要録には所見を残さないといけないのだから。
だが、この要録も形骸化している。中学校の教員に聞いても、小学校の要録を引き継ぎで活用しているところはあまりない、と言う。というのも、指導要録は、保護者から情報公開請求があれば、開示するものなので、無難なことしか書けない、書かないという学校は多い。
なので、気を付けたいことやケアが必要なことについては口頭で引き継ぐ、話し合うという小中学校も少なくないようだ。これでは、何のために要録があるのか、わかったものではない。
なお、人によっても感覚は違うとは思うが、小学生のときの成績や先生からのコメントを、わざわざ公簿として数年間残してほしい、と思う人は、そうたくさんはいないと思う。ちなみに要録の保存期間は、学籍情報は20年だが、指導の記録は5年なので、大人になったときに読み返したいと思っても、廃棄されている可能性が高い。卒業記念などにタイムカプセルなどをしたい人はしたらよいのであって、国がとやかく強要する話ではない。
要するに、意味のあること、時間対効果がそれなりに高いことに労力を割くならよいかもしれないが、活用されていないものに多大な時間を要するのは、教員の徒労感やストレスを高めるし、もったいない。早くやめたい。
文科省は、「働き方改革をもっと進めよ」と全国の教育委員会や学校に呼びかけているが、自身が義務付けている指導要録をはじめとする書類仕事を、もっと「断捨離」してはどうか。
各学校では、通知表や要録にあまり手間をかけないようにしてほしい。通知表などにエネルギーを使うよりも、日ごろの子どもの様子を見て、褒めたり、支援したりすることで、十分だ。
(注記のない写真:ソラえもん / PIXTA)