公立学校の教員には残業代が出ない。給特法(公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法)という特別法で、約50年前(1971年)にできた制度がずっと続いている。

その代わり月給の4%が加算されているが(教職調整額)、これでは「定額働かせ放題」だとして、給特法は、マスコミからも、政治家や研究者、当事者(教員)からも、たびたび批判されてきた。大学生らにも評判は悪く、おそらく教員人気を下げる大きな要因の1つとなっている。

「定額働かせ放題」とは、スマホのかけ放題プランなどになぞらえたキャッチーな言い方で、わかりやすい。だが、そうとうミスリードで、誤解に満ちていると私は考えている。今日はこの問題を解説する。

仕事をしても「労働」と見なされない給特法の大問題

公立高等学校教員の西村祐二さんや名古屋大学教授の内田良さんらが、「月100時間もの残業を放置する『定額働かせ放題』=給特法は抜本改善して下さい!」というオンライン署名約8万筆を集めて、文部科学省に提出している(2023年3月16日)。こうした活動の成果もあって、新聞やテレビニュース、ネット記事などでも「定額働かせ放題」との見出しなどをよく見かけるようになった。与野党からも給特法について改革案が出されているし、中央教育審議会でも給特法のあり方を含めて議論が始まる。

確かに、給特法には問題が多い。授業準備をはじめ、テストや課題の作成、採点、コメント書き、校内事務(校務)、部活動など、公立学校教員の残業の多くが労働基本法上の「労働」とは見なされず、自主的なものと判断され、時間外勤務手当の対象とはならない。働いているのに、この扱いはおかしいという感覚は当然だと思うし、私もこれまで国の審議会や拙著などで問題提起をしてきた。

また、時間外勤務手当が支給されないために、教員の仕事を増やして超過勤務になっても、文科省や教育委員会の懐は痛まない。追加的な財政負担がないからといって、安易に業務を増やすのは、大問題だ。実際、これまで「〇〇教育」などは増えてきたし、学習指導要領で定める学習内容や時間も近年増加傾向にある。

しかも、日本の教員は授業以外の業務も多岐にわたる。近い例では、GIGAスクール構想の下で児童生徒1人1台の端末の整備が進んだが、自治体や教育委員会によっては、端末の管理(ユーザー登録や年度更新など)や故障対応をほぼ学校に丸投げで、情報担当の教員が疲弊しているところもある。

国や教育委員会は残業代の支給なしで、先生たちの仕事を増やしているのだから、まさに「定額働かせ放題」じゃないか。そう考えるのは、自然な発想だと思う。だが、重大な誤解を含んでいる。

妹尾昌俊(せのお・まさとし)
教育研究家、一般社団法人ライフ&ワーク代表
徳島県出身。野村総合研究所を経て、2016年に独立。全国各地の教育現場を訪れて講演、研修、コンサルティングなどを手がけている。学校業務改善アドバイザー(文部科学省委嘱のほか、埼玉県、横浜市、高知県等)、中央教育審議会「学校における働き方改革特別部会」委員、スポーツ庁、文化庁において、部活動のあり方に関するガイドラインをつくる有識者会議の委員も務めた。Yahoo!ニュースオーサー。主な著書に『校長先生、教頭先生、そのお悩み解決できます!』『先生を、死なせない。』(ともに教育開発研究所)、『教師崩壊』『教師と学校の失敗学』(ともにPHP)、『学校をおもしろくする思考法』『変わる学校、変わらない学校』(ともに学事出版)など多数。5人の子育て中
(写真は本人提供)

「定額働かせ放題」という表現は、少なくとも、2つの前提がある。

第一に、給特法をはじめとする現在の法制度が「働かせ放題」を容認ないし助長しているという認識。第二に、いわば「やりがい搾取」となっており、公立学校教員の給与水準は低く、割に合わないという認識である。ここでは、まず1つ目の前提について、本当にそうなのかを検討する。

※「やりがい搾取」とは、経営者が労働者の「やりがい」をアピールすることで、長時間労働や低賃金で業務を強いることを指す

悪名高い給特法だが「長時間勤務の抑制」に力点がある

実は、給特法の下では、校長はめったなことでは、時間外勤務を命じることができない。修学旅行などの学校行事や職員会議、災害対応などで、緊急性のある場合のみである(「超勤4項目」かつ臨時または緊急のやむをえない場合に限定)。典型的には、地震が起きて、学校が避難所になるケースなどであろう。

しかも、給特法第六条第2項では、超過勤務させる場合を定める政令は「教育職員の健康と福祉を害することとならないよう勤務の実情について十分な配慮がされなければならない」と規定している。

こうした条文を素直に読む限り、給特法は「働かせ放題」を推進する趣旨があると解釈するのは、無理があるように思う。むしろ、本来の法の趣旨は、教員の健康を守ること、長時間勤務を抑制することのほうに力点がある、と捉えるのが妥当ではないだろうか。これは私の勝手な解釈ではなく、田中まさお先生(仮名)の訴訟など裁判例の中にも「教員の労働が無定量になることを防止しようとした」のが給特法の趣旨であると解釈するものもある。

言い換えれば、現行の給特法の下では、教員はかなり守られている、と捉えることも可能だ。例えば、近年、部活動の顧問をしたくない教員が増えているといわれているが、校長は(もちろん教育委員会も)、時間外に部活動指導に従事しなさいという職務命令は出せない。

「私は顧問をできません」と断ることは、ほかの教員への負担増や部活動の存続が危ぶまれるなどの実際上の問題は生じうるが、法的には何も問題ない。こうした理由で顧問に就かない教員も実際に出てきているし、ワーク・ライフ・バランスを重視する人は多くなっているようなので、顧問拒否は今後増えるかもしれない。

また、修学旅行などを引率する教員は徹夜覚悟で生徒の見守りや指導に従事する例が多い。宿泊先で火事や地震が発生した場合などは別だが、平穏時に教員の健康を害するような超過勤務命令は出せないので、「私は寝ますね」という教員がいても構わない(論点は少しそれるけれど、教員の健康の犠牲のうえに立つ修学旅行は大きな問題だと思う)。

「安全配慮義務」という防波堤と、在校等時間の上限指針

加えて、教員を制限なく残業させてはいけない仕組みは、ほかにもある。十分とは言えない側面はあるものの、ここでは2つの仕組み、ルールを紹介する。

1つは、使用者(校長ならびに教育委員会など)には、労働者(教職員)の心身の健康を損なうことがないように注意する義務「安全配慮義務」がある。これは公立学校でも私立学校でも適用される法理だ。

校長や教育委員会などの中で、教員は「働かせ放題」だと考えている人がいれば、安全配慮義務違反の可能性があるし、校長などの資質が大いに疑われる。

2022年にも注目される判決があった。過重な業務によって適応障害を発症した大阪府立高校教諭の西本武史さんが府を相手取って起こした裁判(関連記事)で、大阪地裁は、校長と府教委の安全配慮義務違反を認定し、損害賠償を命じた(府は控訴しなかったので確定)。

もう1つは、公立学校教員に対して、時間外の在校等時間(勤務時間)をモニタリングして、月45時間、年360時間以内にする指針がある。

在校等時間に関する指針の概要

労働基準法上の規制と比べると、違反しても罰則はないし、実効性がないとの批判もあるが、この指針も時間外勤務に一定の歯止めをかける趣旨はある。指針の名称は長いが、教員の健康および福祉の確保を図ることが狙いであることがわかる。

先に紹介した西本さんの訴訟では、当時は法に根拠のある指針ではなく、文科省のガイドラインにすぎなかったが、ガイドラインの趣旨や制定された背景が考慮された。判決では、安全配慮義務の履行の判断に際しては、本件時間外勤務時間をもって業務の量的過重性を評価するのが相当であり、「本件時間外勤務時間が、校長による時間外勤務命令に基づくものではなく、労働基準法上の労働時間と同視することができないことをもって、左右されるものではない」とした。下級審の判決であるので、ほかの事案でも適用されるかはわからないが、在校等時間の上限を超えていることが、業務の過重性を判断する際に参照された。

「無制限に働かされる」という誤解が教員志望者を減らしている

以上まとめると、給特法の趣旨、安全配慮義務、在校等時間の上限指針という法制度があるにもかかわらず、公立学校の教員がいわば「治外法権」であり、「働かせ放題」であると主張するのは、事実誤認ではないか。

もっとも、繰り返すが、現行のこうした制度で十二分に教員の健康、福祉、ワーク・ライフ・バランスが守られているかと言われれば、問題は残っている(妹尾昌俊・工藤祥子共著『先生を、死なせない。』でも解説)。実際、先日公表された2022年実施の教員勤務実態調査でも、まだまだ長時間勤務の教員は多い。また、これだけ売り手市場といわれる人材獲得競争の時代に、今の法制度と運用が就活生などに安心材料であるかと言われれば、疑問だ。

私は現状維持でいいと申し上げているのではない。だが、「定額働かせ放題」というネガティブキャンペーンは、現行法の趣旨を無視するものであるし、現職の教員や関係者(教育行政職員、保護者など)、学生たちに、「公立学校の先生になったら、無制限に働かされる地獄のような日々だ」というような誤解を広げることになっている。その結果、教員志望者をさらに減らすことにつながっている。さっさとこの表現はやめて、正確で冷静な議論をするべきではないだろうか。

(注記のない写真:mits / PIXTA)