東京都立高校ブラック校則全廃、本当に必要な校則の見分け方 「黙って従え」通用しない、自由の制限最小限に

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「校則を守れ」という法令はない

実は「校則を守らなければならない」ということは、どの法令にも書かれていない。「児童生徒の服装、髪形などは校則で定めなければならない」と書かれている法令もないし、学習指導要領にも記述はない。つまり、学校生活の中ではいかにも強そうに見える校則だが、根拠となる法令はない。

ただし、学校は学習する場であるし、多くの子どもたちが共同で長い時間を過ごす場でもあるので、一定のルールが必要な場合はある。そのため、これまでの裁判例では、学校が教育目的を達成するために必要かつ合理的範囲内において校則を制定することは認められてきた。

ただし、これまでの裁判例の多くが学校(校長)の裁量を広く認めすぎているという批判はあるし、裁判所は「社会通念上合理的と認められる範囲」で校則を定めてもよいとよく言うのだが、非常に曖昧な内容にとどまっている。

一部の報道や書籍などでは「ブラック校則」とひとくくりにされがちなところもあるが、必要性の高い校則、あるいは合理性のある校則もあれば、そうではない校則もあるのではないか。両者をどう区別したらよいのだろうか。

ここでは、私なりに校則を見直すうえでの考え方を整理し、必要な校則と必要のない校則を仕分ける(見分ける)視点について提案したい。

自由を制限するのは最小限であるべき

まず、大前提となる考え方を3点共有したい。

第1に、自由を制限するのは必要最小限度であるべき、という考え方だ。人類のこれまでの歴史を振り返ると、時の権力者や社会に、個人あるいは集団の思想や活動の自由が大きく制限され、これが数々の不幸を生んだ。こうした反省のもとに、今の日本国憲法をはじめとする法はつくられている。

そして、いま現在もロシアとウクライナで行われていることを見るにつけ、国家権力による自由、生命の侵害は現実に起こりうること、その結果多くの人々が苦しむことを肌身で実感しているのは、私だけではあるまい。

つまり、公立学校のような公権力が生徒の自由を制限するというのは、怖い側面があることなのだ。「大げさな。戦争の話とはまったく次元が異なり、同列には論じられない」という反論、疑問もあろう。確かに被害の規模、程度はまったく異なるが、自由を制限することには慎重の上にも慎重を重ねなければならない、ということは共通である。

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