以上3点から、校則は定めても必要最小限の範囲であるべき、という考え方を採ったほうがよいと私は考える。
必要な校則と、必要のない校則とは
では、必要最小限とはどのようなものか。社会通念などという、わかったような、わからないような概念を持ち出さなくてもよい。ここでは2つの視点を提案したい。
1つは、学校の施設管理上必要性の高い事柄である。例えば、自転車やバイクでの通学は認めない学校がある。学校のスペース上どうしても駐輪場が確保できない場合や、多くの生徒が集まる中、乗り入れを認めては事故を起こしやすいといった理由がある。こういうケースを「ブラック校則」などと呼ぶ人はほとんどいないだろうが、施設管理上必要性が高いなら、禁止はやむをえない。
もう1つは、ほかの児童生徒の権利侵害になりえる行為などを禁止することである。例えば、授業中に騒音を出したり、香水の匂いがきつすぎたりする場合は、本人はよくても、ほかの児童生徒の学習権の侵害になる可能性がある。こうしたケースでは、校則上の問題とせずに、生徒指導の中で個々に対処したらよいことかもしれないが、一定の禁止を学校が定めることは理解できる。
逆に言うと、例えば、髪形や髪の毛の色がどうであれ、施設管理上の必要性や権利侵害の防止・解決にはほとんど関係ないので、校則として規制する必要性は低いし、安易に生徒指導の事案とするべきではない、と私は考える。もっと平易な言葉で表現するなら「人の迷惑になっていない」ものは、自由を認めてよいのではないか。
こう書くと、「妹尾は学校の現実をわかっていない。髪形などを自由にすると、地域などからクレームがくるし、就職活動をするときに不利になる。社会が変わらないといけない」といった反論も現場の先生たちからよく寄せられる。
なるほど、確かに社会としてももっと自由を尊重するようになってほしい、と私も強く思う。だが、だからといって、合理的な理由が疑わしい校則を続ける理由になるだろうか。地域などからのクレームには、学校はきちんと説明していくしかないし、クレームがくるからといって、生徒の意思や自由はどうでもよいという理屈にはならない。就職のとき有利になるかどうかは、相手先にもよるし、生徒本人(ならびに保護者)が髪形などをどうするかは決めればよいことで、一律に制限するものではない。
ぜひ各地の学校においては、本当に必要な校則は何なのか、何のための校則なのかといった根本から見つめ直してほしい。
(注記のない写真:I_am_shota.h / PIXTA)
執筆:教育研究家 妹尾昌俊
制作:東洋経済education × ICT編集部
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