首都圏貫く湘南新宿ライン「開業20年」進化の歩み 東海道線や高崎線を新宿で結ぶ大プロジェクト

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さらに横浜駅は東京方に横須賀線から東海道線への渡り線があったが、うねうねと渡って速度制限が厳しいため、そこを使うと新宿―横浜間30分とならない。そこでこちらは逆に、東海道線電車ながら横須賀線ホームへの到着を許容した。

横浜駅 9・10番線ホームは東横線移設後に拡幅された。それも湘南新宿ラインの誕生後に生じた混雑の緩和が目的だった(写真:久保田 敦)

これらの措置により、当時の報道資料には「横浜―新宿間データイム最速29分(現行より11分短縮)」とあり、事務的な発表だがどこか誇らしげに映る。

ただ、そうした押しの強さの一方で、当時の池袋駅は埼京線と山手貨物線上のホームが別で、その合流(新宿方)は平面交差。新宿駅も15両編成の中距離電車に対応するホームが3・4番線だけという状況だった。そのため、N′EXに臨時列車も活用する都心区間では、新たな列車を組み込める余裕はさほどなかった。

そこで現れた当初の姿は、既存の宇都宮線・高崎線毎時各1本の電車を南側へ直通させ、それだけではさすがに少ないので、新宿―横須賀間の列車を加えて1時間計3本とした。だが運転間隔は20分均等ではなく、15分間隔が2本続いて30分空くパターンだった。運転時間帯は朝〜夕ではあるが、通勤ピーク時は1時間20本の埼京線が最優先で、そこにどうにか中距離電車2本を挟む既存ダイヤで限界だった。そのようなことで日中中心の計25往復とされた。現在の60往復を超える規模との差は明らかだ。

「1」の取得をめぐる攻防も逸話に

この時の列車番号付番にまつわる話は有名で、東京を貫通するため北か南のどちらかで通常の「下りが奇数」の原則と逆になる。新宿や大崎で番号を変えると管理上厄介であるし、当時の大崎は通過であり、番号を変える操作のためには運転停車が必要だ。そこで南北の輸送担当で1の取得をめぐる攻防となり、結局、末尾のアルファベットでEを北行、Yを南行とし、4桁数字の末尾は全列車を0にそろえて“引き分け”にした(下1桁を除く3桁数字で区別)。

ところがその顛末にもかかわらず、その後に上野東京ラインができた際にEを上野東京ライン、Yを湘南新宿ラインと系統別に振り分け、京浜東北線に倣い奇数が南行、偶数が北行となった。なぜ別のアルファベットで区別しなかった?と思うところだが、システム上、同一指令内では同じ記号は使えない制約の下、A・B・Cは京浜東北線、Dは気動車、Fは横須賀線や相模線…、Iは1に似ている、Nは列車ダイヤ図の中でMと間違いやすいなどと除外してゆくと、結局EとYを使うしかなく、苦労のエピソードは過去のものとなった。

発着駅も今ほどの統一感はなく、少ない本数の中にも宇都宮線が小金井・宇都宮・大宮・黒磯、高崎線が籠原・高崎、東海道線は平塚・国府津・小田原、横須賀線は大船・逗子・久里浜と、まさにさまざま。駅の案内掲示類も駆け出しのうちは不十分で、今なら車両のLEDも路線名と行先を交互に表示できるが、方向幕ではそうはいかない。LEDでさえ文字数に限りがあったから、最初は「湘南新宿ライン」の名さえ出せなかったと聞く。

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