52歳で「朝日→ファーウェイ」に転職した男の活路 順風な会社員人生を送っていたが不祥事で一転

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2014年、朝日新聞社では不祥事が噴出する。同紙は8月に慰安婦問題に関する検証記事を掲載し、1980年代から1990年代に掲載した16本を取り消した。ただ謝罪などはなく、週刊誌や他紙からバッシングを受けた。

同紙で連載を持っていたジャーナリストの池上彰さんは「間違いを認めるなら謝罪すべき。訂正は遅きに失した」と批判するコラムを執筆したが、社長が難色を示し、掲載は見送りとなった。ところが、この対応にも、他メディアからの批判が続出。同紙は方針転換して池上さんのコラムを掲載したが、時すでに遅しで、炎上はさらに激しくなった。

問題はさらに続く。朝日新聞社は5月に、2011年の東日本大震災発生時の東京電力福島第一原子力発電所所長・吉田昌郎氏(故人)に対する政府の事故調査・検証委員会の聴取記録「吉田調書」を基に、スクープを報じた。だがその後、記述を巡って他紙から次々に反論され、記事取り消しに追い込まれた。

9月11日、朝日新聞社の木村伊量社長(当時)は記者会見を開き、吉田調書の記事を取り消すとともに、慰安婦報道と池上コラム不掲載について謝罪し、責任者の処分を発表した。この日から2015年1月5日までの4カ月足らずで、3つの問題に関して計5回の記者会見が開かれ、田島さんら広報部のメンバーは記者会見の準備、取材対応、そして経営陣との調整に翻弄されることになった。

記者会見には参加者が殺到

朝日新聞社で開いた9月11日の会見は、予想より多くの参加者が殺到した。会場に入れなかった記者やカメラマンの怒号が飛び交った末、会見を中継する第2会場も設けられた。その後の会見は基本的に社外で行うことにし、広報部は会場を探したが、警備上の問題から軒並み断られ、最終的に要人受け入れに実績があるホテルオークラが受け入れてくれたという。

当時の記者会見の写真を見ると、司会の隣や報道陣の後方に小さく田島さんが写っている。

「混乱に備えて正面玄関以外の出入り口や通路をチェックしたり、テレビ中継のためのアンテナを調整したり、取材で記者会見は何度も出たけど、裏方は初めての経験ばかりでした」

一連の問題で、朝日新聞社は第三者機関に検証を委ねた。委員会の聞き取りや会議は広報部の隣の部屋で行われ、田島さんも広報対応について委員から聞き取りを受けた。

吉田調書を検証した報道と人権委員会(PRC)、慰安婦報道を検証した第三者委員会は、その後まとめた見解や報告書で、経営陣だけでなく、経営陣の誤った判断を止められなかった組織の責任も大きいと指摘した。

「当時の朝日新聞は、自社媒体で検証することで説明責任を果たしたと考えていました。私たち広報も、外部からの取材は押し戻すものという感覚で、誠実に対応したとは言えませんでした。私は自分がだめな広報であることにも気づけていませんでした」

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