「本当は必要のない仕事」が多すぎる歴史的理由 「クソどうでもいい仕事」はこうして生まれる

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ちがいもあります。最初に列挙されている、過剰な仕事の生む仕事(犬の世話など)はBSJ論では脇にやられますが、ここでは重視されていることがわかります。

つまりここでのグレーバーは、「無用な仕事」ではなく、「働きすぎ」といった問題をかなり重視しています。「働きすぎ」といった論点は、わりとありふれてますよね。そして、そのあとに、そのなかには不要な仕事があるのではないか、として具体的に考察をめぐらせています。ここであげられる仕事は、『ブルシット・ジョブ』であげられるものと大きく重なっています。

いずれにしても、ここでの議論のスタイルは、『ブルシット・ジョブ』と相当に異質な感じも受けます。もちろん、このような問いの立て方が母胎になってBSJのアイデアもでたのでしょうし、このフレームはBSJ論のなかでもつねに遠近から鳴り響いています。でも、このような問題の提示の仕方では、これほどの反響もなかったような気もします。

このわたしの直感に根拠があるとすれば、いったいなにがちがうのでしょうか?

ケインズは「週15時間労働」を予想したが…

まず気づくのは、この議論には、2013年の小論において(したがって『ブルシット・ジョブ』においても)全体の議論のフレームを形成していたケインズの議論がでてきていません。このケインズの議論がBSJ論のフレームを形成していることがとても重要で、これは押さえておく必要がありますので、ここで強調しておきたいとおもいます。

小論は、こうはじまります。

1930年、ジョン・メイナード・ケインズは、20世紀末までに、イギリスやアメリカのような国々では、テクノロジーの進歩によって週15時間労働が達成されるだろう、と予測した。
かれが正しかったと考えるには十分な根拠がある。テクノロジーの観点からすれば、これは完全に達成可能なのだから。
ところが、にもかかわらず、その達成は起こらなかった。かわりに、テクノロジーはむしろ、わたしたちすべてをよりいっそう働かせるための方法を考案するために活用されてきたのだ。この目標のために、実質的に無意味な仕事がつくりだされねばならなかった(BSJ3)。
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