「本当は必要のない仕事」が多すぎる歴史的理由 「クソどうでもいい仕事」はこうして生まれる
ちがいもあります。最初に列挙されている、過剰な仕事の生む仕事(犬の世話など)はBSJ論では脇にやられますが、ここでは重視されていることがわかります。
つまりここでのグレーバーは、「無用な仕事」ではなく、「働きすぎ」といった問題をかなり重視しています。「働きすぎ」といった論点は、わりとありふれてますよね。そして、そのあとに、そのなかには不要な仕事があるのではないか、として具体的に考察をめぐらせています。ここであげられる仕事は、『ブルシット・ジョブ』であげられるものと大きく重なっています。
いずれにしても、ここでの議論のスタイルは、『ブルシット・ジョブ』と相当に異質な感じも受けます。もちろん、このような問いの立て方が母胎になってBSJのアイデアもでたのでしょうし、このフレームはBSJ論のなかでもつねに遠近から鳴り響いています。でも、このような問題の提示の仕方では、これほどの反響もなかったような気もします。
このわたしの直感に根拠があるとすれば、いったいなにがちがうのでしょうか?
ケインズは「週15時間労働」を予想したが…
まず気づくのは、この議論には、2013年の小論において(したがって『ブルシット・ジョブ』においても)全体の議論のフレームを形成していたケインズの議論がでてきていません。このケインズの議論がBSJ論のフレームを形成していることがとても重要で、これは押さえておく必要がありますので、ここで強調しておきたいとおもいます。
小論は、こうはじまります。
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