100年前は超のどか!五輪ゴルフ面白すぎる歴史 出場者にそもそも「五輪」という認識がなかった

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ランバートの実家は、セントルイスで医療用消毒薬などの製造販売を手掛ける会社だった。経緯は省くが、現在は「リステリン」として知られている口腔洗浄液を開発し、ヒット商品になった。1904年のオリンピックがセントルイス万国博覧会の付属大会になると知って、自身が所属するグレン・エコーCCでのゴルフ競技の開催に尽力した。

セントルイス大会は、9月に男子のみで個人戦と団体戦が行われた。欧州から選手が来なかったため、個人戦はアメリカとカナダの75人が参加。予選ラウンド上位32人がマッチプレーを行って、カナダアマチュア選手権覇者のジョージ・ライオン(カナダ)が、全米アマチュア選手権を制しているチャンドラー・イーガン(アメリカ)を決勝で破って優勝した。

ちなみに、この大会から各競技種目の1~3位に金、銀、銅メダルが贈られるようになった。

団体戦は1チーム10人で、アメリカのウエスタン協会、トランスミシシッピ協会がエントリー。メダルは3つあるので、急きょ会場にいるアメリカ選手を集めてアメリカゴルフ協会(USGA)チームを結成したという、のどかな時代。出場資格も今のような規定がなかったようだ。ウエスタン協会が金メダルを獲得した。というより、アメリカが金、銀、銅を独占した。

ランバートは個人戦でマッチプレー準々決勝敗退、団体戦ではトランスミシシッピ協会の一員として銀メダルを獲得している。

オリンピック後に飛行場を造り、リンドバーグも支援

時代はライト兄弟が1903年に初の有人飛行に成功して航空機が登場したころだった。

ランバートはオリンピック後は飛行士となり、第一次世界大戦(1914~1918年)に従軍後、貨物輸送などの会社を設立するとともに、セントルイスに6万8000ドルで飛行場を造った。貨幣価値はわからないが、プロペラ機の時代とはいえ相当な費用が掛かっただろう。1927年に大西洋単独無着陸飛行を達成したチャールズ・リンドバーグを支援した1人で、リンドバーグの飛行機は「スピリット・オブ・セントルイス」と名付けられている。

ランバートが作った飛行場は、セントルイス市に建設費と同額で売却され、市営飛行場となった。現在は「セントルイス・ランバート国際空港」となって、名前が残されている。100年前の選手たちには、ゴルフの選手だけでもその後を含めて多くのドラマがあった。

筆者は30年近く新聞社でオリンピック報道に関わってきたが、オリンピック・パラリンピックに出場する選手たちはみんな、われわれに勇気を与えてくれるようなドラマを持っていることは確かだ。

コロナ禍で今回のオリンピックは通常とは違う大会になることは間違いない。「コロナに打ち勝った証の大会にする」と菅首相は言っていたが、まだ打ち勝っていないことは明らかだ。それなら、選手たちから「コロナに打ち勝つ力」をもらいたい。笑顔や涙は免疫力を上げるそうだ。

赤坂 厚 スポーツライター

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あかさか あつし / Atsushi Akasaka

1982年日刊スポーツ新聞社に入社し、同年からゴルフを担当。AON全盛期、岡本綾子のアメリカ女子ツアーなどを取材。カルガリー冬季五輪、プロ野球巨人、バルセロナ五輪、大相撲などを担当後、社会部でオウム事件などを取材。文化社会部、スポーツ部、東北支社でデスク、2012年に同新聞社を退社。著書に『ゴルフが消える日 至高のスポーツは「贅沢」「接待」から脱却できるか』(中央公論新社)。

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