“宇宙一壊れる”などと揶揄されたビトゥルボであるが、確かに当たり外れがあったのは事実である。しかし、実際に長年、このビトゥルボを所有し、かつ多くの個体を見てきた筆者の経験として言えば、正しいメンテナンスさえ行っていれば、大きなトラブルに遭うことはさほど多くないのではないかと考える。
つまり、ハイパワーの代償として、各部のマージンが少ないから定期的な点検とマメな部品交換を必要とするわけだ。外観はフツウだが、中身はなかなかに硬派なクルマである。このビトゥルボの系譜すべてがスーパーカーのカテゴリーに入るわけではないが、日常の取り扱いは“準スーパーカー”クラスの注意が必要ではあった。
しかし、日本市場におけるマセラティの存在感は、当初より群を抜いて高かった。その1つの理由は、当時のインポーターであるガレーヂ伊太利屋がとんでもなく力を入れたマーケティングを行ったことにある。日経新聞への全面広告や女性誌とのタイアップ広告などは、当時の輸入車としては類を見ない試みであった。
第2には、コンパクトなボディでありながらも、本革やきらびやかなウッド素材を惜しげもなく使った豪華なインテリアが、日本人の感性にマッチしたことにある。
また、当時大人気であったF1のテクノロジーを彷彿させるツインターボの採用なども、スペック好きのマインドを捉えたであろう。
もちろん、第3の理由として、バブル景気による豊かな経済環境が、日本のビトゥルボ人気を大きく後押ししたことは間違いない。1980年代の終わりにビトゥルボのアメリカ輸出が中断して以来、日本市場の存在はどんどんと大きくなり、遂には日本が世界でいちばんマセラティを売る国となった。
危機を救ったビトゥルボにエールを
地道な改善活動により今や高い信頼性を得たマセラティであるが、このビトゥルボで構築された日本におけるマセラティのブランディングは今も継承されている。日本はマセラティにとって重要なマーケットであり続けているのだ。
厳しい歴史的評価を受けているビトゥルボだが、この冒険的な試みがなかったならば、マセラティの歴史は途絶えていたかもしれない。危機的状況からブランドを救ったビトゥルボの生誕40周年にエールを送りたい。
マセラティ「ビトゥルボ」誕生とその進化
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1981年「ビトゥルボ」のお披露目を行ったアレッサンド
写真:著者アーカイブ
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2ドアの登場後に追加された4ドアモデル
写真:MASERATI S.p.A.
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カロッツェリア・ザガートがオープン架装した「スパイダー
写真:MASERATI S.p.A.
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マルチェロ・ガンディーニによるデザインの「シャマル」
写真:MASERATI S.p.A.
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ビトゥルボの象徴たるオーバル型アナログ時計
写真:MASERATI S.p.A.
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ビトゥルボエンジンの進化形であるV型8気筒3.2リッタ
写真:MASERATI S.p.A.
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越湖 信一
PRコンサルタント、EKKO PROJECT代表
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えっこ しんいち / Shinichi Ekko
イタリアのモデナ、トリノにおいて幅広い人脈を持つカー・ヒストリアン。前職であるレコード会社ディレクター時代には、世界各国のエンターテインメントビジネスにかかわりながら、ジャーナリスト、マセラティ・クラブ・オブ・ジャパン代表として自動車業界にかかわる。現在はビジネスコンサルタントおよびジャーナリスト活動の母体としてEKKO PROJECTを主宰。クラシックカー鑑定のオーソリティであるイタリアヒストリカセクレタ社の日本窓口も務める。著書に『Maserati Complete Guide』『Giorgetto Giugiaro 世紀のカーデザイナー』『フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング』などがある。
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