日本人は「黒人」の定義をおそらく誤解している 安易にレッテル貼ることの影響を考えているか

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だが私は、それは変化するだろうと思っている。ゆっくりだが着実に変化するに違いない、と。

日本人には、人種問題的なレッテルや、特定の定義をある集団に、日本人が適切であると思うやり方で当てはめる権利がある。それ自体は問題ない。

日本人にはまた、こうしたレッテルについて理解しようと努力しない権利もあるし、そのレッテルが貼られた人にどういう影響を与えるかについても、努力して理解しないようにする権利もある。が、これについては問題がない、とは言えない。事実、これは人種差別を招き、外国人嫌いを大手を広げて歓迎する風潮につながってしまう。日本人はこれより優秀なはずだ。

人種差別撤廃を訴えたのは日本人だった

この問題について、私は楽観的とは言えない。人類が、ある集団が別の集団に対して人種や肌の色、またはそれぞれの集団固有の特徴や傾向を取りあげて話すことがなくなることがたとえあったとしても、私が生きている間にはないだろうと正直なところ思っている。

それでも、私たち誰もが、他者に自分たちを定義されたり、話されたりするのではなく、自分たちで定義し、名づけ、代表して主張するよう最大限の努力をすべきだと強く思っている。

残念ながら日本では「黒人であること」は、啓蒙されていない日本人や、白人至上主義者によって定義されており、これは受け入れられない。だからこそ、黒人というブランドを着ることを強制されている何十億人の中の1人として、アフリカ人の子孫の人々に、彼らにふさわしい、より多くのメリットを享受できる、新たなブランドを確立するのに手を貸したいと思っている。ステレオタイプではなく、事実に基づいた情報でいっぱいのブランドだ。

1919年のパリ講和会議で日本は、人種差別撤廃提案を行い、人類の平等を実現し、白人至上主義を終わらせようとした。だが、そのような努力をしたのは日本人だけではない。人類の平等と白人至上主義の終焉は1960年年代のアメリカにおける公民権運動や、現在世界中でみられるブラック・ライブズ・マター運動の目標と同じである。

アメリカは日本の人種的差別撤廃提案を拒絶する以前には、ジェノサイドや奴隷制などによって、自国の非白人(アフリカ系、ネイティブアメリカン、アジア人も同様)について同じように価値を認めなかった。日本人の黒人に対するイメージは、これと同じ白人至上主義だ。黒人のレッテルはひどく不正確で人種差別的であり、それゆえ、黒人の命は危険にさらされている。

だからこそ、日本にいる私たちはともに、日本における黒人/ブラックの定義を考えなければいけない。それは肌の色に基づいたステレオタイプなものではなく、アフリカ系の子孫の人々、そして日本人の理想やニーズに見合ったブランドであるべきだ。私たちが今、力を注ぐべきはそこだろう。

バイエ・マクニール 作家

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Baye McNeil

2004年来日。作家として日本での生活に関して2作品上梓したほか、ジャパン・タイムズ紙のコラムニストとして、日本に住むアフリカ系の人々の生活について執筆。また、日本における人種や多様化問題についての講演やワークショップも行っている。ジャズと映画、そしてラーメンをこよなく愛する。現在、第1作を翻訳中。

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