渋沢栄一の「鉄道初体験」は意外な場所だった 日本での開業より前に可能性を見抜いた洞察力

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2度目の鉄道を体験するのは、マルセイユからパリまでだった。アレクサンドリアから船でマルセイユ入りし、マルセイユに1週間滞在。その後、一行はパリへと汽車で向かう。途中のリヨンで一泊するが、翌朝にはリヨンを発ち同日にパリに到着。この2度の鉄道体験で、渋沢はその利便性を実感。国家の発展に交通機関は欠かせないことを悟る。

もう一つの初体験

ちなみにこのとき、鉄道そのもの以外にも、渋沢の心に強く印象づけられたモノがある。それは、これまで日本には存在しなかった「板ガラス」だった。

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渋沢同様に、同行した日本人たちも板ガラスを知らない。列車の窓の外は、きちんと風景が見える。ガラスの存在を知らない日本人は、そこに何も存在しないと考え、窓から食べ終わったミカンの皮を投げ捨てようとした。しかし、ミカンの皮はガラスにはねかえって隣の席の西洋人に当たった。それが原因で日本人と西洋人が言い争いになった。日本人と西洋人は互いの言葉がわからないために一悶着が起きたものの、その場にいた人がとりなしたことにより、場は収まったという。

輸送手段としてだけでない、最先端の文明が結集された「鉄道」体験が渋沢にとっていかに鮮烈だったかをうかがえるエピソードだ。

板ガラスの存在はのちに鉄道の発展にも結びつくことになる。高速で走る列車は強い風圧を受ける。車内で快適に過ごすためには、そうした風圧の影響をなくさなければならない。それにはガラス窓の存在が欠かせない。つまり、速く走る列車には、板ガラスの製造技術が必要だった。この時点の渋沢はそのことに気づいていないが、のちに渋沢は板ガラス製造にも関わることとなる。

日本人の中では、比較的早い時期から鉄道に触れた渋沢はすぐに鉄道の内包する力を見抜いた。そうした鋭い洞察力が、渋沢の才能と言っていいかもしれない。

小川 裕夫 フリーランスライター

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おがわ ひろお / Hiroo Ogawa

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経てフリーランスに。都市計画や鉄道などを専門分野として取材執筆。著書に『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『私鉄特急の謎』(イースト新書Q)、『封印された東京の謎』(彩図社)、『東京王』(ぶんか社)など。

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