今、人々はモノではなく夢に投資する。そしてそれは、「見えない資本」による資本主義、一見「資本のない」資本主義が世界に、ネット空間を介して広がっていることを物語る。確かに古くはすでに1970年代から『脱工業社会の到来』(ダニエル・ベル)、『第三の波』(アルビン・トフラー)など、モノの生産を主軸とする工業化の後にやってくる経済の潮流について語られ日本のビジネス論壇でも話題となっていたが、その引き起こす変化、与える影響の大きさが、今切実なものとなってきているということだろう。
商品は、情報、知識、感性……、さらに進めば、共感、感情、精神、イメージ……。デジタルテクノロジーの複製技術は、そうした「幻影」も「複製」「増幅」「拡散」させていくことにも長けている。コロナの中、人々が直接の接触を避け、いよいよネットの海の中に埋没する時代に、「無形資産」は大きな渦巻きの中心にあるかのようだ。そこから生み出される波は、現代社会の岸壁にも打ち寄せ、徐々に浸食、いつの間にか社会の構図を変えていくように見える。変化は静かに確実に押し寄せる。
現代はトキ消費、イミ消費の時代
モノからコト、コトからトキ、あるいはイミへ……。現代はトキ消費、イミ消費の時代ともいわれるようになってからもすでに久しい。ユーザーのゲーム内での滞留「時間」を重視しある種の「囲い込み」を狙う戦略や、人々が商品に見いだすそれぞれの物語における「意味」の発見にこそ付加価値があるとする発想がそうしたトレンドを支えている。そこで商品となっているのは、「アイデア」であり、「創造性」であり、「人生の時間」なのだ。
それはある意味、従来の生産手段に囚われることなく、無限の「生産」「消費」を可能にする資本主義ともいえる。しかし同時に、フランスの知性ダニエル・コーエンがかつて番組内でも用いた表現を引けば、すべてのプレーヤーに「創造的であれ、さもなければ、死だ!」(「欲望の資本主義2018」)と宣言するような過酷な社会でもあるのだ。
そこには功罪、光と影がある。資本主義の常として、成長が、生産性の向上が至上命題となるとき、このデジタルテクノロジー主導の「資本のない」資本主義にあっての「成長」とは? 「生産性」とは?
工業化の時代と同じように「成長」も「生産性」も定義できないとするならば、私たちはどこかで間違ったのか? それは資本主義がはらむ根源的な不安定性なのか? それとも……? まるでメビウスの輪のように反転しながら原点へと回帰しつつ、問いは続く。
コロナが加速化させるのは、単に格差問題というにとどまらず、こうした社会の歪な構造変化なのではないだろうか?「富を生む構造」を経済理論のみならず、社会哲学的にも解明する必要があるゆえんである。そしてそれは、「経済」現象を抽象化することに対して極めて注意深くあらねばならない探究であると、あらためて思う。
そして、この「無形資産」にこそ、ある意味究極的な「欲望の資本主義」の課題がある。毎回冒頭に「やめられない、止まらない、欲望が欲望を生む……」というナレーションをリフレインしてきたが、それは強欲批判というより、際限なく自己増殖する人の欲望、資本の運動性に着目しての表現だった。
「未来の可能性」という幻想を貨幣に抱くのと同様、「無形資産」=形なきものへの欲望も始末に負えなさそうだ。「夢」なしでも「夢」だけでも生きられない人間の性。世界を覆う自然の脅威の中、「欲望が欲望を生む」資本主義は、社会は、どこへ向かうのか?
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