これには、もっと根本的な「日本社会の思考停止」にも問題がある。それは、すぐに「命と経済とどっちが大事なんだ!」という二分法で議論をしてしまいがちなことだ。
コロナ問題では、常にこの論法が持ち出される。今までは常に感染防止対策を最優先するための論理として使われ、人々の心理としても「感染防止最優先が大前提」としてしまう結果につながってきた。
これがエスカレートして、馬鹿馬鹿しいことに「何よりもコロナ感染防止」が重要となり「多くの高齢者がコロナにだけは絶対になってはいけないから」などと当然のように、日常会話の枕詞で使うようになってしまった。
「経済と命の二分法」に怒るのは理解できるが・・・
その結果、命の危険がコロナよりも高い深刻な疾患があるのに、コロナのことを、一般の人々だけではなく行政府も病院も恐れることになってしまっている。その結果、意味不明なまでに過剰な対応がなされ、滑稽なまでの対応が時としてなされている。もちろん、笑いごとではないことに、うつ病や子供のDV(ドメスティックバイオレンス)なども増えているだけでなく、命にかかわりかねない多くの病気の診察を患者自身が控えてしまっている。
これを腹立たしく思うのは私だが、「経済と命の対比論法」に対して私以上に怒りをため込んでいたのが菅首相だと思われる(あくまで想像だが)。
春には「8割おじさん」などもいて「専門家会議は、とにかくコロナのことしか考えない」という批判が一部の人々にはくすぶっていた。「東京はニューヨークを超える死者が出る」など、私に言わせれば限りなくゼロに等しい確率でしか起こりえないことを「理論的な推計としてはあり得る」などと主張して人々を恐怖に陥れ、自粛を過剰にし、経済を過度に委縮させた人がいたのは事実であると捉えている。
菅首相も、当時そう思ったのではないか。それで、感染症の専門家への不満や不信が募り、今回の感染拡大時も、専門家の意見は常に割り引いて聞いていたのではないか。
「専門家に影響を受けたメディア、さらにはメディアに影響を受けた結果として、国民全体がコロナを過度に恐れてしまっている。『命を優先しろ!』と、まるで言論テロリズムのように、感染対策を過剰に主張している。ここは(意地でも)経済を優先させなければいけない」と菅首相は思い込んだのではないか。
それ自体は、私も同じ方向の意見を持ってはいる。しかし違うのは「それはあくまでも程度問題で、バランスが常に重要だ」ということだ。確かに4~5月は感染症を極端に優先させ過ぎた。だが、10月以降の感染拡大に関しては、人々は4~5月のときの自粛にうんざりして、10月には自粛すべきことも一切しなくなってきた人が増えてきた。だから、感染対策を強化する必要があることは間違いなかった。
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