アメリカ建国の英雄は民主制を否定していた? 「1つの国家」と言えない政治体制・社会だった
石川:アンドリュー・ジャクソンが第7代大統領に当選した1828年からアメリカ史が大きく変わります。
佐々木:どのような人物だったのでしょうか。
石川:ジャクソンは、両親が1765年にアイルランドから移住してきた2年後に生まれた人物です。自称ノースカロライナ出身ですがはっきりしていません。アメリカ合衆国が独立した頃にはまだ存在していなかったテネシー州の創設に関わり政治的階梯を登って行きました。
ヴァジニア、マサチューセッツ主導で築かれていた初期アメリカ共和政体ですが、ここでいきなり自称ノースカロライナ出身でテネシー(アメリカ南西部)に基盤を持つ男が大統領になります。しかも、ジャクソンは1767年生まれということになっていますから、これが確かなら第6代大統領のジョン・クインジー・アダムズと同い年です。
移民の息子から大統領に
クインジー・アダムズは、父のジョン・アダムズに独立宣言の草稿を読ませてもらい、独立戦争中は外交官として活躍した父と一緒にヨーロッパを周遊して見聞を広め、通訳として父を補佐するなどした人物で、つまりエリート中のエリートです。
その同じ頃に這々の体でやってきたアイルランド移民の息子がジャクソンで、彼はエイブラハム・リンカンと並んでおそらく学校教育をまったく受けた形跡のない人ですね。ジャクソンは独立戦争に少年兵として参加し、捕虜になり虐待も受けています。クインジー・アダムズとの隔絶はとてつもなく大きかったのです。
学校教育を受けた形跡がないジャクソン(文字が読めなかった可能性もあります)ですが彼は不思議なことに弁護士になっています。この辺りのいい加減さも開拓期アメリカの面白いところですが、アメリカ南西部新領地は、未開拓の地で、彼が当時おもに行った弁護士業務というのは、おそらく略奪や土地の係争問題、それからネイティブ・アメリカンとの戦いといったことです。こうした業務で着々と成果をあげた彼は、テネシー州が成立するとテネシー州の下院議員、上院議員に選出され、またテネシー州の検事総長になり辣腕を振るい、奴隷農園のプランターにもなります。
これは驚くべきことです。クインジー・アダムズとジャクソンほど出自に差がある場合、例えば欧州であればとても1代では追いつかないですが、アメリカにおいては1代で追いついてしまえるのですね。後に選挙で、ジャクソンがまさにこのクインジー・アダムズに勝ち、第7代大統領に就任するわけです。圧倒的な出自の差を1代で追いつくことができる、この風土がアメリカの斬新さであり、身分制社会が当たり前の時代に、階級の桎梏から逃れえる避難所であったことは間違いないでしょう。
1828年の大統領選挙でジャクソンは大統領になりますが、その制度的背景としてこの時期に普通選挙が導入されていたことが大きいでしょう。労働者のほうが数は多いわけですから、必然的に、数的に劣る名望家による支配は終わりを迎えることになりました。
それからもう1つ注目すべきこととして挙げたいのは、ジャクソンの頃に「民主党」ができたことです。
第4代大統領のジェイムズ・マディソンの時代に1812年戦争(対イギリスの戦争)が起こり、これによりフェデラリスツが事実上解党して、以降はリパブリカンズ一党体制になります。フェデラリスツのジョン・アダムズの息子のクインジー・アダムズがリパブリカンズに所属していたのはこういう理由です。アメリカ史ではこの時期は「好感情の時代」(The Age of Good Emotion)と呼ばれています。
つまり、分裂著しいアメリカであっても政党政治による分裂は、本来はよくないものだとアメリカ人は思っていたのです。フェデラリスツとリパブリカンズの対立には内心うんざりしていたのだろうということが「好感情の時代」という表現から伺えます。